「やっぱり悲劇だった」by 三浦基

開店日記の改装編に行く前に閑話休題。
地点代表三浦基の新著のご紹介。
地点信者としては買わないわけにはいきません。
装丁は左綴じの横書きスタイルで表紙はアンダースローの愛おしい椅子たち。
以下内容抜粋。
まずは本のタイトルの一部にもなってる書き下ろしのテキスト「悲劇だった」から。
"シェイクスピアの40近くある戯曲のタイトルを眺めれば、ある単純なことに気がつく。人名がタイトルの場合が悲劇、それ以外が喜劇の確率が高いということだ。
(中略)
悲劇とは何かを問う。タイトルが名前であること。マイネームの人物が世界を背負うこと。そして肝心なのは、その世界を観客が疑わないこと。これらの条件がそろったときに、ようやく悲劇は成立する。そして大抵の悲劇では、王や将軍、妃、王子、姫などの取り替え交換不可能な英雄たちが翻弄される。このように限定された人々を弄ぶ仕掛けとしてドラマを押し進める道具が「運命」となる。運命がその力を一番わかりやすく誇示できるのは、死。だから、悲劇では人がよく死ぬ。
(中略)
チェーホフは死よりももっと重い事実、つまり、そう簡単に人は死ねない、と悟ったわけだ。運命のもとにマイネームに苛む者たちを殺してきたわけだが、ここにきてその事情が変更されたのである。"
この後カモメのニーナとトレープレフの話にもなるけど、悲劇の絶対的条件として、「名を背負う」ということが重要、と三浦さんは言います。
市井の人の悲劇は悲劇たり得ない。
ニーナの有名なセリフに
「わたしはーーかもめ。・・・いいえ、そうじゃない。わたしはーーー女優。そ、そうよ!」
というのがありますが、彼女は「わたし」にすらなり得ないのです。
それ故チェーホフは自身の作品を「喜劇」と言い切ったのです。
続いてイプセンの「人形の家」に関して。
”批評家は『人形の家』をいたずらに社会劇とか問題劇と呼んでみたりした。ノーラは女性解放運動などと何の関係もないはずだった。政治的に読むことの愚かさを、つまり解釈を身につけることの罪はこうして生まれたのである。近代劇が教条主義的でつまらない心理劇に陥るこの路線は、悲劇が不可能になっている状況に目を向けず、誰でもヒーロー、ヒロインになれると思っている呑気さに原因があったのではないか。”
中々辛辣ですが、これは本当に的を得ていると思います。
いまだにハリウッド映画や日本映画でも平気で人を殺して涙を誘ってますが、あんなの嘘幻だし命はそんなに軽くない、といつも見ていて腹が立つんだけど、まさに上で三浦さんがおっしゃってる、悲劇が成立しない現代においても悲劇に無理矢理押し込んで行こうという無茶がイラつかせるんだと思います。
この本で何度も言われるのが、「人は何者にもなれない」ということです。
特に近代以降の現代は、「わたし」は「わたし」だけでなく「あなた」や「だれか」になるということ。
テレビやSNSで常に誰かの「声」に触れられてしまう今は特にそうなんだと思います。
以下スタニスラフスキー・システムやリアリズムを否定する段でも語られます。
”「自分が誰でも良かった」という犯人を目の前に、私たちは、驚きつつもそれがあり得ると認めているのだから。いつ刺されるかもわからない現実は、何も今日に始まったことではない。無差別殺人とは、何が無差別なのか。いうまでもなく、自分も他人も等しく「誰でもない」ということ。戦争がテレビで見られるようになって、むしろ私たちはそのことに嫌でも気づかされている。自分が誰にもなれない無力感は、傍観者の特権などではもちろんない。誰だって、突き詰めれば自分を殺すしかなくなるのだ。だから無差別とは他殺プラス自殺だと言える。ここで重要なのは、そう簡単に観客が死んでたまるかということ。”
”近代とは人間の尊厳というものが、問い直された時間だった。人間の生死が一対一の決闘で左右される時代から、あっという間に大量殺戮、無差別殺人の時代へと突入してゆく。名誉や尊厳といったものはどんどん小さくなってゆく。その兆しをチェーホフは、正確に掴んでいたが、スタニスラフスキーにはわからなかった。なぜスタニラフスキー・システムではダメなのか?俳優が一人一役を生きることはもはやできなくなっていることに気づいていないからである。
(中略)
問題。人は死ぬ。劇は人を殺してきた。観客は、その死ぬ人物に感情移入してきた。劇はその人を埋葬してきた。つまり名前を与え続ける行為を俳優は疑わなかった。俺がハムレットを演じる担保は、ハムレットが構成、名を残す存在だからという無自覚の前提があった。ハムレットを演ずるということに対する疑いはここには存在しない。チェーホフの登場人物は、すでにその疑いの中で生きはじめていた。”
「現代は喜劇である。」
タイトルとは相反しますが、三浦さんの結論はこうかも。
さらに続くなら、「それの何が悪い?」でしょうか。
僕が大学に入った時に最も驚いたのが、周囲の人の多くが「自分探し」という言葉を口にしていたことでした。
僕にとって「自分」なんてのは瑣末なことで、むしろそれを取り巻く世界にしか興味がなかったんです。
今でもそうですが、僕は僕に興味がないです。
自分は誰にもなれないし誰にでもなれる、という確信が子供の時からありました。
なので、今回の三浦さんのテキストはスッと入ってきたし、地点の舞台にここまで心酔してしまう理由がなんとなくわかった気がします。
地点の舞台では、一応みんな役はありますが、それが混じる瞬間が何度もあるのです。
特にこないだの「だれか、来る」なんてのは、二人で一役をやっちゃうんだから、本当に狂ってるよなーと歓喜したものです。
僕らは決して「Born this way」じゃないと思います。
ガガのこのヒット曲にも出てきますが、この考え方は「神」が前提なんです。
でも、もうそんなのいないですよね、多分。
少なくとも僕に信仰なんてものはないし、三浦さんのこの本にも言葉はきついですが「信仰とは芸術にとってひとつのさぼりである」とすら言っちゃってて、まさにその通りで、人ってそんな単純じゃねーよ、と言いたいわけです。
むしろ自分が自分になれないからこその豊さがあるはずだと僕は思います。
改めてそのことを噛み締めた一冊でした。
他にも地点の舞台裏みたいなのも書かれてるし、地点ファンならなお楽しめる内容!ぜひ!