國分功一郎「中動態の世界」 / 高橋睦郎「在りし、在らまほしかりし三島由紀夫」

「暇と退屈の論理学」の國分功一郎さんの新著読了しました。
これまた現在ポップアップカフェで開催中の「良いニュースというのは多くの場合小さな声で語られるのです。」に関連する本です。
忘れないうちにメモ的に投稿します。読みたい人だけどうぞ。
まず、この「中動態」という言葉が気になりますが、その前に導入。
われわれは果たして、どこまで自分の「意志」で動いているのか、という問題から。
現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。
脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシュミレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。
熊谷晋一郎の表現を借りれば、「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」。われわれは脳内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。(p17)
意志は自分以外のものに接続されると同時に、そこから切断されていなければならない。われわれはそのような実は曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしている。(p23)
と、抜き出してみましたが、所謂「意志」というのがとても曖昧な概念だということです。
さらにこの意志を考える時に出てくる概念が「能動」と「受容」です。
なぜならこの二つの概念は「する/される」の「意志」の方向を指し示す概念だからです。
責任を負うためには人は能動的でなければならないということである。受動的であるとき、あるいは受動的であらざるをえないときには、人は責任を負うものとは見なされない。
(中略)
人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p25-26)
この辺りからどうも能動にもいくつかのレイヤーがあるのではないかという疑いが湧いてきます。
そしてついに登場するのが「中動態」という概念。
かつて、能動態でも受動態でもない「中動態 middle voice」なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。(p34)
なんとこんなものが以前は存在していたんですね。
ここから「中動態」の正体へと突き進みます。スリリングです。
しかし2章からいきなり難しい。
なんせこの中動態、紀元後はもちろん相当昔に失われたもの。
ゆえに古代ギリシア語だのなんだので説明せざるを得ず、想像力が追いつかない。。。
とは言え我慢して読んでいくと、どうもこの中動態、言葉だけ見た僕の勝手なイメージでは、能動でも受動でもない間の状態のことなんかな、と思ってたらどうも違うらしい。
「中動態」という名称は不正確である。中動態は中間的なものではない(Middle voice is not middle)。(p72)
正直ここでガックリきました。
というのも、僕の場合、例えば作品作るとか、今回のようにお店やるとか、100%やりたいことでは実はないんです。
むしろ、何か違うものに動かされてる感覚というか。。。これまたオカルトですが笑
僕は、これをやりたいと心から思うものに人生は懸けられません。というか燃えません。
謎の使命感のようなものを背負った時に重い腰が上がる。
この感覚を「中動態」という言葉がキーになるのかな、って勝手に期待して読んじゃってました。。。
なので、ここに来てそうじゃないらしいというのがわかってきてガックリなわけ。
まあ、個人的な話は別にして先進みます。
では、一体この「中動態」って何よ、ということ。
例えばこんな説明。
能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。(p88)
能動態と中動態の対立させる言語では、意志が前景化しない。(p97)
ここだけ抜き出してもはい?ってなりますが、例えば
「彼は馬をつなぎから外す」
という文があった時に、それが例えば自分の主人のために外すのか自分のために外すのかが問題になります。
結果から言えば、前者が能動態で、後者が中動態です。
つまり、中動態では、行為が自分に返ってくるのです。
ちょっと前後しますが、後半のスピノザの話。
スピノザの言う神すなわち自然そのものを説明するにあたっては、中動態(内態) に対立する意味での能動態(外態)には出番がない。この世界には外がないのだから、その外です完遂する過程を示す態は必要ないのだ。
スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。(p243)
神の行いはすべて中動態です。なぜなら神に「外」はないから。
この説明ではわからないよね。。。本読んでください笑
進みます。
ここまで言語的に「中動態」が何かを追求してます。
これを哲学に応用していくのが第4章あたりから。
言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。(p111)
そして再び「意志」の問題に突入していきます。
プロアイレシスに対応するのは意志ではなくて、リベルム・アルビトリウムだと考えねばならない。それは自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追求する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない。
(中略)
意志が未来のための器官であるとすると、意志が一つの能力としてその存在を認められるためには、それに対応する未来もまた存在していなければならないことになる。つまり未来が、「真正なる時制」として認められていなければならない。なぜならば、未来が一つの時制として認められていないところでは、未来のための器官の場所も存在しないからである。
プロアイレシスってのはアリストテレスの哲学に出てくる「選択」を主に意味する言葉。
対してリベルム・アルビトリウムとは自由意志のこと。
自由意志と意志は違うのですね。。。難しい。
そして意志が成り立つためには未来を前提にしないといけないのだけど、この未来ってそもそも前提にできるの?って話。「未だ来てない」って書いて未来なわけだから、ないものを前提にできないよね。そもそも古代ギリシア語には未来系なんてものは存在しないとハンナ・アレントはおっしゃる。
じゃあ、意志って。。。
意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から斬り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。
(中略)
望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
(中略)
選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れられ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。
「意志など幻想だ」と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。
(中略)
実際には「選択」--さまざまな要素に影響を受ける不純なもの--を扱っているにもかかわらず、「意志」--絶対的に独立した純粋なもの--を否定の対象として取り上げることで、「みなさんが純粋だと思っていたそれは、純粋ではなかったのです」と言っているのだ。
(中略)
意志が一方的に行為や選択を決定するという考えにあまりになれてしまっているために、意識されないもの(無意識) と意識されるもの(意識)についても、一方が他方を一方的に決定すると考えてしまっているのだ。
(中略)
選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力ではない。(p132-135)
とまあ、長々と抜き出してみましたが、みんな意志のこと勘違いしてない?ってことです。
じゃあ、「意志」なんてものは本当に存在しないんでしょうか?
ここからフーコーの権力論に繋がっていきます。
服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。
権力と暴力が混同されがちであるのは、権力がしばしば暴力を利用するからである。暴力が行使可能性に留まりつつも効力を発揮するためには、権力を行使される相手がその暴力の恐ろしさを理解していなければならない。したがって権力は、暴力の恐ろしさを理解させるために、暴力を限定的に用いることがある。
権力は暴力を限定的に用いることがあるが、暴力の行使は権力の目的と対立する。(p135)
権力の関係は、能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中道性の対立によって定義するのが正しい。(p151)
この辺も本を読まないとピンとこないかもしれないけど、例えば銃を突きつけられて便所掃除を強いられてる人がいるとして、便所掃除する人は、あくまで銃の脅しに屈して「させられてる」わけだけど、でもやってるのはその人本人。
便所掃除する/しない=生きる/死ぬという天秤にかけた結果だとしても、でもやっぱりそれも選択の結果な訳です。
するのを選択したのはその人なのだから、これは一見「受動」に見えて実は「能動」なんじゃないか。
でもね、実はここで「受動」と「能動」で見ちゃうと違うんだよ、という話。
権力者(銃を向けてる側)は、他者を脅すことで便所掃除という行為を成し遂げてる。
けど、便所掃除をするのは実際には脅されてる人なので、行為の外にいるから能動。
一方便所掃除を実際している脅されてる人は、便所掃除を結局自分のためにやってるから中動。。。
と、書いてて僕もわからなくなってきましたw
先進めます。
再び意志の核心へ。
「する」か「させる」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は誰のものか?」と問う。
(中略)
中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。
(中略)
行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない。(p176)
もともと大差のない表現であるにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じしぐさが、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、自発的に姿を現したのか、何かによって姿を現わすことを強制させられたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。
そして言うまでもなく、この問いによって前景化させられるのが意志に他ならない。(p182)
中動態はあるときから抑圧された。能動態と受動態を対立させるパースペクティブこそが、この抑圧の体制である。われわれはこのようなパースペクティブのなかにある言語を、尋問する言語と呼んだ。その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する。
しかし、心のなかでの抑圧が、一度行使されればその後も変わらず影響力を行使できるといった類のものではなく、抑圧し続けるために強いエネルギーを必要とするのと同様、言語における抑圧もまた、それが行使され続けるためには強いエネルギーを必要とするのだろう。
中動態に関して言えば、行為の帰属や意志の存在をめぐる強い信念こそがそのエネルギーの源であったようにおもわれる。しかし、これは言い換えれば、そうした抑圧が弱い地点や、それが弱まった際には、抑圧されていたものが再び現れ出るかもしれないということである。
これは精神分析で言う「症候 symptom」のようなものである。抑圧されていたものが、形を変えて現れるのだ。その意味で、こうした表現は、中動態という”抑圧されたもの”の回帰として捉えられるべき現象である。(p195)
卵が先か鶏が先かではないけれど、意志というのは「能動」と「受動」の対立の中にあっては不可欠な存在。
けれど、中動態の時代には意志はほとんど問われることがなかった。
単に行為の質を問うことで、能動か中動かが分かたれたのです。
意志の誕生は、ある種の窮屈さを産んでしまったわけです。
以降ハイデッガーとか出てきますが、大事なのは最後のスピノザ。
スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば。自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた。
自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するようにほかから決定されていることを言う。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。
人は必然的な法則に囚われたときに不自由となって強制の状態に陥るのではない。自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。だから自由や強制は変状の差として考えられねばならないのである。
いまわれわれが「必然的な法則」と呼んだものは、具体的にはわれわれ一人一人のなかで、働くコナトゥスの作用機序かかわっている。コナトゥスはわれわれ一人一人の構成と相関関係にあるのだった。つまり、構成が異なればコナトゥスは異なった仕方で作用する。コナトゥスの作用が異なるから、<変状する能力>の現れも異なってくる。そしてそのような力こそ、われわれ一人一人の本質である。
スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものになる。
自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に「自由」に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。
だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p262-263)
なるほどー!と言いたいところなんだけど、やっぱり僕はちょっと違う意見。
それって自分の「本来性」に行き着いちゃうんじゃないの?って思っちゃう。
國分さんも「暇と退屈の論理学」でその「本来性」を否定されてませんでしたっけ。。。
自分を自分で認識するなんて、むしろ不自由さに直結する危険な思想な気がします。
ここで、まったく別の本を紹介します。
高橋睦郎さんの三島由紀夫に関するエッセイ「在りし、在らまほしかりし三島由紀夫」です。
三島由紀夫は置いといて、最後の対談にとっても興味深い言葉がたくさん出てきます。
僕の考えを言えば、表現に大事なのは自分ではない。僕は個性というものには何の意味も認めません。ここに林檎があるとします。ここに桃があるとします。これを表現する時に大事なのは、僕の個性ではない。林檎の個性であり、桃の個性です。そのために自分の中に存在するなけなしの個性を使うんですよ。ある意味では自分の個性を消すんです。それが表現ということであって、だからその表現によって自分を相手に託してしまうことによって、自分は救われるんです。自己主張というのは地獄です。お互いに自己主張するからこの世の中は滅茶苦茶になっていくわけです。(p254)
重要なのは表現されるべき対象であり、表現する自分はそのための道具にすぎない、表現の道具である自分は能う限り低くみじめな存在でなければならない、と思うようになり、そう思うようになると、生きることが自分でも驚くほどらくになってきた。そして、それこそが自分にとっての自己実現なのだ、と自覚した。
これです。
所謂「表現者」と言われる人は、自分の中から溢れる何かを外に放出してるのだと思われがちだけど、そうじゃないと思います。
むしろ中身は空っぽにしておかないとダメで、その「何か」は外からやってくるマレビトだと思うのです。
ここには國分さんの言うように「意志」はありません。しかしそこには「本来性」もないんです。
自分を自分で認識可能だなんて、おこがましいとすら思えます。
むしろ一番謎なのが自分という生き物ですよ。
その謎を謎のまま受け入れることが重要なんじゃないかなと思います。
続けてこの2冊を読んで、色々頭の中整理できました。

われわれは果たして、どこまで自分の「意志」で動いているのか、という問題から。
現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。
脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシュミレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。
熊谷晋一郎の表現を借りれば、「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる」。われわれは脳内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。(p17)
意志は自分以外のものに接続されると同時に、そこから切断されていなければならない。われわれはそのような実は曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力と見なしている。(p23)
と、抜き出してみましたが、所謂「意志」というのがとても曖昧な概念だということです。
さらにこの意志を考える時に出てくる概念が「能動」と「受容」です。
なぜならこの二つの概念は「する/される」の「意志」の方向を指し示す概念だからです。
責任を負うためには人は能動的でなければならないということである。受動的であるとき、あるいは受動的であらざるをえないときには、人は責任を負うものとは見なされない。
(中略)
人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p25-26)
この辺りからどうも能動にもいくつかのレイヤーがあるのではないかという疑いが湧いてきます。
そしてついに登場するのが「中動態」という概念。
かつて、能動態でも受動態でもない「中動態 middle voice」なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。(p34)
なんとこんなものが以前は存在していたんですね。
ここから「中動態」の正体へと突き進みます。スリリングです。
しかし2章からいきなり難しい。
なんせこの中動態、紀元後はもちろん相当昔に失われたもの。
ゆえに古代ギリシア語だのなんだので説明せざるを得ず、想像力が追いつかない。。。
とは言え我慢して読んでいくと、どうもこの中動態、言葉だけ見た僕の勝手なイメージでは、能動でも受動でもない間の状態のことなんかな、と思ってたらどうも違うらしい。
「中動態」という名称は不正確である。中動態は中間的なものではない(Middle voice is not middle)。(p72)
正直ここでガックリきました。
というのも、僕の場合、例えば作品作るとか、今回のようにお店やるとか、100%やりたいことでは実はないんです。
むしろ、何か違うものに動かされてる感覚というか。。。これまたオカルトですが笑
僕は、これをやりたいと心から思うものに人生は懸けられません。というか燃えません。
謎の使命感のようなものを背負った時に重い腰が上がる。
この感覚を「中動態」という言葉がキーになるのかな、って勝手に期待して読んじゃってました。。。
なので、ここに来てそうじゃないらしいというのがわかってきてガックリなわけ。
まあ、個人的な話は別にして先進みます。
では、一体この「中動態」って何よ、ということ。
例えばこんな説明。
能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。(p88)
能動態と中動態の対立させる言語では、意志が前景化しない。(p97)
ここだけ抜き出してもはい?ってなりますが、例えば
「彼は馬をつなぎから外す」
という文があった時に、それが例えば自分の主人のために外すのか自分のために外すのかが問題になります。
結果から言えば、前者が能動態で、後者が中動態です。
つまり、中動態では、行為が自分に返ってくるのです。
ちょっと前後しますが、後半のスピノザの話。
スピノザの言う神すなわち自然そのものを説明するにあたっては、中動態(内態) に対立する意味での能動態(外態)には出番がない。この世界には外がないのだから、その外です完遂する過程を示す態は必要ないのだ。
スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。(p243)
神の行いはすべて中動態です。なぜなら神に「外」はないから。
この説明ではわからないよね。。。本読んでください笑
進みます。
ここまで言語的に「中動態」が何かを追求してます。
これを哲学に応用していくのが第4章あたりから。
言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。(p111)
そして再び「意志」の問題に突入していきます。
プロアイレシスに対応するのは意志ではなくて、リベルム・アルビトリウムだと考えねばならない。それは自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追求する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない。
(中略)
意志が未来のための器官であるとすると、意志が一つの能力としてその存在を認められるためには、それに対応する未来もまた存在していなければならないことになる。つまり未来が、「真正なる時制」として認められていなければならない。なぜならば、未来が一つの時制として認められていないところでは、未来のための器官の場所も存在しないからである。
プロアイレシスってのはアリストテレスの哲学に出てくる「選択」を主に意味する言葉。
対してリベルム・アルビトリウムとは自由意志のこと。
自由意志と意志は違うのですね。。。難しい。
そして意志が成り立つためには未来を前提にしないといけないのだけど、この未来ってそもそも前提にできるの?って話。「未だ来てない」って書いて未来なわけだから、ないものを前提にできないよね。そもそも古代ギリシア語には未来系なんてものは存在しないとハンナ・アレントはおっしゃる。
じゃあ、意志って。。。
意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から斬り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。
(中略)
望むと望まざるとにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く。
(中略)
選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れられ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。
「意志など幻想だ」と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。
(中略)
実際には「選択」--さまざまな要素に影響を受ける不純なもの--を扱っているにもかかわらず、「意志」--絶対的に独立した純粋なもの--を否定の対象として取り上げることで、「みなさんが純粋だと思っていたそれは、純粋ではなかったのです」と言っているのだ。
(中略)
意志が一方的に行為や選択を決定するという考えにあまりになれてしまっているために、意識されないもの(無意識) と意識されるもの(意識)についても、一方が他方を一方的に決定すると考えてしまっているのだ。
(中略)
選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力ではない。(p132-135)
とまあ、長々と抜き出してみましたが、みんな意志のこと勘違いしてない?ってことです。
じゃあ、「意志」なんてものは本当に存在しないんでしょうか?
ここからフーコーの権力論に繋がっていきます。
服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。
権力と暴力が混同されがちであるのは、権力がしばしば暴力を利用するからである。暴力が行使可能性に留まりつつも効力を発揮するためには、権力を行使される相手がその暴力の恐ろしさを理解していなければならない。したがって権力は、暴力の恐ろしさを理解させるために、暴力を限定的に用いることがある。
権力は暴力を限定的に用いることがあるが、暴力の行使は権力の目的と対立する。(p135)
権力の関係は、能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中道性の対立によって定義するのが正しい。(p151)
この辺も本を読まないとピンとこないかもしれないけど、例えば銃を突きつけられて便所掃除を強いられてる人がいるとして、便所掃除する人は、あくまで銃の脅しに屈して「させられてる」わけだけど、でもやってるのはその人本人。
便所掃除する/しない=生きる/死ぬという天秤にかけた結果だとしても、でもやっぱりそれも選択の結果な訳です。
するのを選択したのはその人なのだから、これは一見「受動」に見えて実は「能動」なんじゃないか。
でもね、実はここで「受動」と「能動」で見ちゃうと違うんだよ、という話。
権力者(銃を向けてる側)は、他者を脅すことで便所掃除という行為を成し遂げてる。
けど、便所掃除をするのは実際には脅されてる人なので、行為の外にいるから能動。
一方便所掃除を実際している脅されてる人は、便所掃除を結局自分のためにやってるから中動。。。
と、書いてて僕もわからなくなってきましたw
先進めます。
再び意志の核心へ。
「する」か「させる」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は誰のものか?」と問う。
(中略)
中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。
(中略)
行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない。(p176)
もともと大差のない表現であるにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じしぐさが、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、自発的に姿を現したのか、何かによって姿を現わすことを強制させられたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。
そして言うまでもなく、この問いによって前景化させられるのが意志に他ならない。(p182)
中動態はあるときから抑圧された。能動態と受動態を対立させるパースペクティブこそが、この抑圧の体制である。われわれはこのようなパースペクティブのなかにある言語を、尋問する言語と呼んだ。その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する。
しかし、心のなかでの抑圧が、一度行使されればその後も変わらず影響力を行使できるといった類のものではなく、抑圧し続けるために強いエネルギーを必要とするのと同様、言語における抑圧もまた、それが行使され続けるためには強いエネルギーを必要とするのだろう。
中動態に関して言えば、行為の帰属や意志の存在をめぐる強い信念こそがそのエネルギーの源であったようにおもわれる。しかし、これは言い換えれば、そうした抑圧が弱い地点や、それが弱まった際には、抑圧されていたものが再び現れ出るかもしれないということである。
これは精神分析で言う「症候 symptom」のようなものである。抑圧されていたものが、形を変えて現れるのだ。その意味で、こうした表現は、中動態という”抑圧されたもの”の回帰として捉えられるべき現象である。(p195)
卵が先か鶏が先かではないけれど、意志というのは「能動」と「受動」の対立の中にあっては不可欠な存在。
けれど、中動態の時代には意志はほとんど問われることがなかった。
単に行為の質を問うことで、能動か中動かが分かたれたのです。
意志の誕生は、ある種の窮屈さを産んでしまったわけです。
以降ハイデッガーとか出てきますが、大事なのは最後のスピノザ。
スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば。自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた。
自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するようにほかから決定されていることを言う。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。
人は必然的な法則に囚われたときに不自由となって強制の状態に陥るのではない。自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。だから自由や強制は変状の差として考えられねばならないのである。
いまわれわれが「必然的な法則」と呼んだものは、具体的にはわれわれ一人一人のなかで、働くコナトゥスの作用機序かかわっている。コナトゥスはわれわれ一人一人の構成と相関関係にあるのだった。つまり、構成が異なればコナトゥスは異なった仕方で作用する。コナトゥスの作用が異なるから、<変状する能力>の現れも異なってくる。そしてそのような力こそ、われわれ一人一人の本質である。
スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものになる。
自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に「自由」に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。
だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p262-263)
なるほどー!と言いたいところなんだけど、やっぱり僕はちょっと違う意見。
それって自分の「本来性」に行き着いちゃうんじゃないの?って思っちゃう。
國分さんも「暇と退屈の論理学」でその「本来性」を否定されてませんでしたっけ。。。
自分を自分で認識するなんて、むしろ不自由さに直結する危険な思想な気がします。
ここで、まったく別の本を紹介します。
高橋睦郎さんの三島由紀夫に関するエッセイ「在りし、在らまほしかりし三島由紀夫」です。
三島由紀夫は置いといて、最後の対談にとっても興味深い言葉がたくさん出てきます。
僕の考えを言えば、表現に大事なのは自分ではない。僕は個性というものには何の意味も認めません。ここに林檎があるとします。ここに桃があるとします。これを表現する時に大事なのは、僕の個性ではない。林檎の個性であり、桃の個性です。そのために自分の中に存在するなけなしの個性を使うんですよ。ある意味では自分の個性を消すんです。それが表現ということであって、だからその表現によって自分を相手に託してしまうことによって、自分は救われるんです。自己主張というのは地獄です。お互いに自己主張するからこの世の中は滅茶苦茶になっていくわけです。(p254)
重要なのは表現されるべき対象であり、表現する自分はそのための道具にすぎない、表現の道具である自分は能う限り低くみじめな存在でなければならない、と思うようになり、そう思うようになると、生きることが自分でも驚くほどらくになってきた。そして、それこそが自分にとっての自己実現なのだ、と自覚した。
これです。
所謂「表現者」と言われる人は、自分の中から溢れる何かを外に放出してるのだと思われがちだけど、そうじゃないと思います。
むしろ中身は空っぽにしておかないとダメで、その「何か」は外からやってくるマレビトだと思うのです。
ここには國分さんの言うように「意志」はありません。しかしそこには「本来性」もないんです。
自分を自分で認識可能だなんて、おこがましいとすら思えます。
むしろ一番謎なのが自分という生き物ですよ。
その謎を謎のまま受け入れることが重要なんじゃないかなと思います。
続けてこの2冊を読んで、色々頭の中整理できました。

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