TOYO ITO #1

1941年。伊東豊雄は韓国のソウルで生まれる。
豊雄という名前は父が好きな豊臣秀吉から取られた名前。
両親共に日本人。父の仕事の関係で韓国での出生となる。
当時世界は大戦真っ只中。
父は日本が負けることを確信し、故郷の下諏訪に家族を移住させる。
豊雄少年2歳の頃。
それから中学生の頃まで諏訪湖を見ながら育つ。

父親の死。
豊雄少年小学校6年生の頃。
脳溢血。54歳という若すぎる死であった。
しかし父は豊雄少年にたくさんのものを残した。
よく息子を美術館や博物館に連れて行った。
それが今の建築家伊東豊雄を作り上げた礎であることは間違いない。

中学生の頃、母が諏訪を出る決心をする。上京。
それに際し、家を誰か有名な建築家に建ててもらうことに。
建築家は芦原義信。
しかし伊東青年はあまり気に入らなかった模様。
特に意味のない段差は不可解極まりなかったようだ。
その後伊東豊雄がフラットな床にこだわるのはこの体験からだという説も。

高校入学。野球部のサウスポーとして青春時代を謳歌。
徒競走も得意なスポーツ青年。
そんな彼も大学進出と共に野球をやめる。
大学は東京大学工学部建築学科。理由は特にない(らしい)
当時の建築学科は丹下研究室のオーラが立ち込めていた。
そこから伊東豊雄は刺激を多々受ける。

大学卒業と共に菊竹清順の事務所に入所。
当時の菊竹事務所は革新的なプロジェクトが目白押しでとても刺激的であった。
在籍4年目にして伊東は事務所を退所。1969年。万博の前年。
退所した伊東はしばらく親戚や知人から頼まれた仕事をこなす。
その頃生まれたのが義兄のために建てた「アルミの家」。

1971年事務所設立。事務所名をUROBOTと名づける。
当時所員は伊東も含め3人。仕事も年に数件。仕事がない。
今の「世界の伊東豊雄」の姿は予感すらなかった。
それが数年続き毎日議論ばかりしていたこともあった。
住宅の仕事は何件か入った。
「中野本町の家」や自邸である「シルバーハット」が少しずつ話題になる。
が、まだまだ「世界の伊東豊雄」は先の話。

90年代に入ると公共施設の依頼がぽつぽつと入ってくる。
ちなみにこの頃建てた中目黒Tビルは「東京ラブストーリー」の舞台。
1995年。せんだいメディアテークのコンペを勝ち取る。
伊東氏の最初のスケッチをファックスで受け取った構造家佐々木氏は
「最初に見たとき心底から震えがきた」
と、後に語っている。

2001年1月1日。21世紀の到来と共にせんだいメディアテーク竣工。
それは新しい建築の誕生であった。
これまでコルビュジエらが追求してきた「モダニズム」を打ち破る確信的な建物。
それがせんだいメディアテーク。
世界を震撼させた伊東豊雄はいよいよ「世界のTOYO ITO」になるわけである。
その後構造とデザインが一緒になった建物を次々発表。
作品ごとにスタイルを変える伊東の変化っぷりに世界は酔いしれている。
現在65歳。まだまだ始まったばかり。
関連資料
「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」 瀧口範子著
「建築|新しいリアル」 展覧会図録
写真
まつもと市民芸術館(2004) 伊東豊雄
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