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「マルセル・デュシャンとアメリカ: 戦後アメリカ美術の進展とデュシャン受容の変遷」 by 平芳幸浩

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今年2017年は、デュシャンの「泉」が発表されてまる100年になります。
100年前にあんなものを世に発表したデュシャンという人物が空恐ろしいです。
未だにあの作品ほど美術という枠組みを変えてしまった作品はこの100年出ていません。
それほど彼の「レディメイド」という発明は美術の世界を変えてしまいました。
デュシャン以前の美術作品は、ほぼ技術がなせる技でした。
絵画にしろ彫刻にしろ、芸術家の手が重要だったのです。
その根本をあっさりとひっくり返してしまったのがこのデュシャンという人です。
なんせ男性用便器にサイン(それも偽名)をしただけで作品と言ってのけてしまったんだから。
それ以降美術作品において、手仕事であることはさほど重要でなくなりました。
作家が何を作品と名指すか。そこにどういう意味があるのか。
それが今の現代美術と言われるものの根底になりました。

そんなデュシャンが戦後アメリカにどう受け入れられてきたか、を論じているのがこの本です。
この本にはデュシャンの作品の解説もほとんど書かれていません。
あくまで、彼の存在が当時どんなものだったのかの研究です。
しかしそこには彼をいかに戦後のアメリカ美術が取り込んで行こうかという思惑がたくさん絡んでいて、読んでいてかなりスリリングな本でした。
結果的にはデュシャンは、その場その場で、まるでカメレオンのようにその受容のされ方に応じて態度を変えていった様が伺えます。
やはり一筋縄ではいかないようです。
ということで以下本の内容。




さて、そもそもなぜ「戦後」の「アメリカ」なのか。
それは、戦後アメリカ美術史=戦後美術史と言ってしまっても過言ではないから。
第二次世界大戦以前のアートシーンはパリがその実権を握っていました。
印象派、キュビズム、シュールレアリズム、フォービズム。
これらの美術運動は全てパリが中心でした。
しかし戦後、その実権はアメリカ、主にニューヨークに移りました。
ポロックを始めとする抽象表現主義が美術界を席巻します。
そこにはローゼンバーグやグリーンバーグといった優れた批評家たちの存在も欠かせません。
ヨーロッパが戦後復興に必死の中、ほぼ無傷で勝利したアメリカが有利だったのもあるでしょう。
戦争の最中、ヨーロッパの戦火から逃れるためにアメリカに移住してきた人々も少なくありませんでした。
そんな中デュシャンは戦前の1930年代から拠点をパリからアメリカに移していました。
1913年のアーモリーショーで展示された「階段を降りる裸婦No.2」がアメリカで既に有名で、彼の評価は彼の故郷フランスよりもむしろアメリカの方が高かったのです。んー、フランスやってしまいましたね。
そういうこともあり、仕事は断然アメリカの方が多くて、そのまま拠点を移しちゃったわけです。
とはいえ30年代頃のデュシャンといえば、美術家としてよりはチェスプレイヤーとして活動しています。
誰もが彼はすっかり美術を捨てたと言われており、忘れられた存在となった時代もあったようです。
が、戦後、再び彼はアメリカ戦後美術を正当化するための駒のようにアートシーンに担ぎ出されます。

当時のデュシャンといえば、「泉」よりも「階段を降りる裸婦No.2」の評判が高く、画家として見られていました。
40年代は彼の絵にフランスのダダイズムやシュルレアリズムの文脈を読もうとする動きがありました。
実際いくつもの上述の企画展に出品依頼を受け、デュシャン自身も受け入れています。
むしろ積極的にシュルレアリズムの展覧会の展示構成とかもやっちゃってるんですよね。
この時期のデュシャンは、相変わらずチェスもやってますが、グリーンボックスを作ったり、キャサリン・ドライヤーやマン・レイと共にソシエテ・アノニムというプライベートミュージアムを作ったり、美術会議にも顔を出したりして、案外積極的にアートシーンに顔を出しています。
特に1949年にサンフランシスコ美術館で開催された「ウエスタン・ラウンド・テーブル・オン・モダン・アート」で興味深いやりとりをしています。

デュシャン:私たち十分に強調していないことは、芸術作品は芸術家とは独立しているということです。芸術作品はそれ自身で生き、それをたまたま作り出した芸術家は責任のない媒体のようなものです。どんな芸術家もいかなる時にも「私は天才だ。私は傑作を作るだろう」とは言いません。そんなことはないのです。

ベイトソン:では、ミスター・デュシャン、あなたがおっしゃっていることは、芸術家は絵画がそれ自身を描かせる絵画の通路だということですね。(・・・)しかしそれは、ある意味、芸術作品はそれがカンヴァスに乗る前に存在している、ということを含みます。

デュシャン:はい。それは引っ張り出されるのです。


この「引っ張り出される」という表現は非常に面白いですね。
その後もデュシャンは「私は創造者に対して何も感じません。」という発言もあり、徹底して作家の手を否定しています。

さらに時代は進み50年、60年代。ジョーンズやラウシェンバーグに代表されるネオ・ダダ旋風が起こります。
そこでもデュシャンは登場し、彼は今度はダダイストとして担ぎ出されます。
画家からチェスプレイヤーへの転移が、反芸術として捉えられたようです。
ここでも変わらずデュシャンは画家です。否。画家を捨てた画家としてのダダイスト=デュシャン。
なんだか複雑ですが、アメリカがこの当時彼を画家として見立てたい理由がありました。
それは抽象表現主義の乗り越えです。
この当時、抽象表現主義はすでにアメリカ戦後アート史の中で「目の上のたんこぶ」になっていました。
次のアートムブーブメントとしての連続性を考えたら、同じメディアである「絵画」の方が都合が良かったのかな。
デュシャンのレディメイドという考え方すら、絵画表現の延長として捉えられました。そんな無茶な。
しかしそんな無茶ぶりにもデュシャンは臨機応変に対応します。
ある時は画家として、ある時はダダイストとして、カメレオンのように振る舞うデュシャンの身振り。
ただ、彼は自分の作品を「絵画」として捉えられることに関しては多少の嫌悪があったようです。
彼は網膜的なものを嫌悪していました。
大ガラスについても「ガラス上の絵画」ではなく「ガラス上の遅延」と呼んでいました。
「網膜的な絵画」または、「絵画が網膜的」であること。これこそが彼の嫌悪の源でした。
彼は絵画とレディメイドの関係に関してこう発言しています。

1914年以降だと思いますが、既製品を使おうと考えました。どうして「つくる」なのか。「つくる」とは何なのか。何かをつくること、それは青のチューブ絵具を、赤のチューブ絵具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、そして相も変わらず一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、そして相も変わらず場所を選んで、カンヴァスの上に色を乗せることです。それは相も変わらず選ぶことなのです。そうして、選ぶために、絵具を使うことができますし、絵筆を使うことができます。しかし、既製品も使うことができます。(・・・・・)選択が絵画においては主要なことですし、普通でさえあります。

デュシャンにとって絵画もレディメイドも選択の結果でしかありませんでした。
なので、彼にとって画家と呼ばれようとダダイストと呼ばれようとどうでもよかったのかもしれませんね。
しかし60年も後半になってくると、もはや「絵画」であるか否かはそこまで問題ではなくなってきます。
フルクサスに代表される、「エンバイロメント」や「イベント」「ハプニング」という新たな芸術の出現。
ここではアートと日常の境界線がより曖昧になっていき、そこでまたレディメイドが出てくるわけです。
さらにフルクサスは「フルックスキット」というマルチプル作品を制作しますが、これがまたデュシャンの「トランクの中の箱」にそっくり!
ただし、デュシャンのそれはすべてのパーツがサインの入った作品であるのに対して、フルックスキットは、各パーツは日常品なので切り分け不可能であり、さらには「芸術作品」と呼ばれるのを拒否するようなものまで存在します。
フルクサスにおいては、デュシャンの作家性の否定をさらに推し進めている感があります。
ただし、レディメイドが「視覚的無関心」に依っていたのに対し、フルクサスの目指していたものは「日常の審美化」であり、この二つは似て非なるものとして存在しています。
むしろその後に登場したポップアートがレディメイドの「視覚的無関心」をより引き継いでいるのかも。
実際ポップアートを初めて見た批評家のバーバラ・ローズはこう批判しています。

私には彼らのイメージは不愉快だ。スーパーマーケットで見なければならないものを画廊で見なければならないことを不愉快に感じる。私が画廊に足を運ぶのは、スーパーマーケットから逃れるためであって、スーパーマーケットの経験を繰り返すためではない。

それは形としてはカンヴァスに色の載ったものとして絵画然としている。
しかし、そこには見るべきものは何もない。
この何もなさこそが「視覚的無関心」を強烈に押し出しています。
さらにこのポップアートのたちの悪さは、その前のネオダダやフルクサスが抱えていた「芸術か否か」の議論をスルーしている点。なぜならそれらは伝統的な絵画然としていたし、彫刻然としているから。表象内容を批判されることはあっても、表象行為は問題とされなかったのです。
以下本文からそのまま抜粋。

機械化され醜いはずのアメリカ型の社会にあふれている通俗的な事物は、芸術家の選択による文脈の置き換えによって新たな美的価値を生み出すであろう。しばしばジョン・ケージを出発点として語られるこの「日常の審美化」という回路において、芸術家はそれが属する社会に対して超越的な位置を獲得するに至る。この「日常の審美化」が十全に機能するように看取されるのは、絵画という「芸術的形式」にポップ・アートが則っているからだということに再度注意しておかなければならない。絵画形式を極限的な地点まで至らせる試みを行ったウォーホルでさえも、レディメイドなイメージをどれほど使用しても、全くの変更の加えられていない工業製品としてのレディメイドを単体として利用することは決してなかった。「芸術的形式」に準じた作品を成立させているという前提のもとで、芸術家は特異な選択眼を持つ主体として特権化されることとなるのだ。(P164)

つまり、ポップアートに関しては、レディメイドほど「作家の特権性」は剥奪されておらず、いかにウォーホルが「もっと多くの人がシルクスクリーンを取り上げて、どれが僕の作品でどれが他の人の作品かわからなくなったら、すごくいかしてると思う」と発言しようと、絵画然、彫刻然としているポップアートにおいては作家性は決して拭い去れないのです。
そこには作家の「美的判断」がどうしても必要だからです。
その「美的判断」を切り離すべく現れたのがコスースを始めとするコンセプチュアル・アートです。

芸術と美的判断を切り離すこと。そして、フォーマリズムを装飾的な形式分析と個人的な好みに押し込めること。そしてさらに、既存のジャンルにこだわることを無意味だと断罪することによって、コスースはコンセプチュアル・アートとフォーマリズムとの距離を設定する。この距離によって正当化されるのは、コンセプチュアル・アートに置ける作品の概念的側面と、作品の機能的側面と、作品の非物質化への道のりである。なぜなら、コスースの言う「芸術と美学の分離」はもはや次のように言い換えられねばならないからである。つまり、「芸術認定と作品の視覚的特性との分離」に。(P182)

このフォーマリズムを乗り越えるためにやはりレディメイドは繰り返し召喚されます。
デュシャンが1917年に発表した、コート掛けを床に据え付けた作品のタイトルは「罠」。
観客を躓かせるための「罠」でもあるが、ここではその形式が「罠」と捉えられます。
形式の裏側にある「概念」こそが本質であり、作品そのものの形式は「躓きの石」となりうる。
だったら視覚的芸術である美術って何なのってなってきますが・・・。
しかしコスースの美的判断で持ってフォーマリズムを批判することにも限界があります。

フォーマリズム批判において、美的判断と形式分析は不可分のものではあっても、同一のものではない。作品の質によってもたらされる美的判断、あるいは美的判断によって理解される作品の質、は作品の形式とは異なる異相にある。すなわち、フォーマリズム批判において、作品の形式は、作品の質を伝達する媒体ではあるが、コスースが言うような美的判断の対象ではないのである。美的判断が関係するのは形式の向こう側に透かし見える作品の内容である。(中略)グリーンバーグにとって、芸術の形式的還元による純粋化、各々のメディウム特性へのこだわりは、モダニズム芸術の「傾向」として存在しているが、それは、芸術をめぐる歴史的な慣習を乗り越え更新し続けるプロセスであって、「形式」とは「作品」に内容をもたらすために解決されるべき課題でしかない。そして作品の「内容」あるいは「質」という言葉が、グリーンバーグによって「要点、意味、芸術作品が究極的にたずさわっているもの」と言い換えられる時、芸術の認定の行為は、フォーマリズムにとってもコスースにとっても、同じように作品の視覚的特性の向こう側に結びついている。コスースが美的判断と形式分析を結びつけることによって否定したはずのフォーマリズム批判の論理的枠組みは、芸術の認定行為においてコスースの論理に焼きうつされているのである。(P190)

さて、やはりここで問題になるのは視覚芸術であることの意味です。
コンセプチュアル・アートがいかに概念が大事と主張し続けようと、視覚的であることは免れない。
前述のフルクサスのように、コスースは振る舞えないのです。
レディメイドは確かに芸術の根本条件を大きく覆しましたが、決して芸術を否定しなかった。
むしろその裾野を広げたものだったのに対し、コンセプチュアル・アートはその裾野の中でしかプレイできませんでした。

ここまでデュシャンを軸としながら、アメリカ戦後美術史を辿っていくと、改めて彼の存在のデカさに驚きます。
デュシャン自身が1954年にヒューストンで行った「創造過程」という講演語った言葉はとても示唆的。

創造行為においては、芸術家は意図から始まって、主観そのものの一連の反応を通して具現化へと向かう。具現化へ向けての戦いは、努力や苦痛、満足や拒絶や決心といったものであるが、それらは少なくとも美的領域では完全に意識的ではなありえないし、そうであってはならないのである。この戦いの結果、意図と具現化との差異、芸術家の気づかない差異が生まれる。結果的に創造行為に付随する連鎖反応には、その連鎖の環の一つがかけている。このギャップは、自己の意図を完全に表現することが芸術家には出来ないということを示しており、彼が実現しようと思っていたものと実施に実現したものとのこの差異は、作品に含まれる個的な「芸術係数」である。言い換えれば、個的な「芸術係数」は、表現されなかったが意図されたものと意図されず表現されたものとの算術的連関のようなものである。(・・・・)観者の役割は、美的尺度で作品の価値を決定することである。結局、創造行為は芸術家だけで行われるのではない。観者が作品を外的世界と接触させ、作品の内的能力を読解し解釈して、創造行為に寄与するのである。

これは先日蔵谷美香さんのお話と通じますね。
そして、デュシャンはここでかなり作品が「見られる」ことを意識しています。
そしてその「見られる」ことが作品の完成につながるような言い方ですよね。
作家であることを放棄したような印象のデュシャンですが、彼はやはり作家なんですよね。
その「見られること」を強く意識したのがなんといっても「遺作」です。
正式名称「与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガラス」。
フィラデルフィア美術館において、彼の死後唐突に発表されたこの作品。
これまで世界中に彼のレディメイドのレプリカを許してきたデュシャンが、この作品に関しては、レプリカどころか発表後15年間、写真撮影すら禁じられていました。
この作品を「見る」ためには観者はこの美術館まで足を運ぶしかありません。
また、このフィラデルフィア美術館には、デュシャンの作品が多くコレクションされています。
それは彼のパトロンでもあったアレンズバーグがこの美術館にそのほとんどを寄贈したためです。
これもまたデュシャンがいかに作家であったかを証明する身振りなのですが、デュシャンは自分の作品が集中的に「見られる」場を求めていて、アレンズバーグに過去の作品を買い戻させたりして巧妙に一箇所に自身の作品を集めさせていました。それが最終的にフィラデルフィア美術館という、美術の殿堂に渡ったのは、それまで反芸術的態度すら見せてきたデュシャンの裏切り行為として捉えた人も少なくはなかったと思います。
しかし考えてみれば、レディメイドが芸術になるための諸条件としてそもそもその裏側に作者という絶対的存在は欠かせません。

レディメイドとは「これは芸術である」という判断と命名の問題であり、作者と感謝の差異を消去するものである。しかしながら、レディメイドが現実に、ある「場」に投げ出される時に問題となるのは、「これは芸術である」と判断し命名する”発話者”である。「これは芸術である」という直接話法の命題は、現実の「場」にレディメイドが姿を現わす瞬間に、「マルセル・デュシャンは「これが芸術である」と言う」といった間接話法の命題に書き換えられてしまうのだ。(P237)

「芸術」とは、少なくとも近代においては、「芸術家」と切り離して施行されえないものであった。いかにそれが理念的に嘱望されようが不可能だったのである。それはレディメイドの需要の言説が雄弁に物語っている。まさにそれゆえに、「デュシャン最後の作品」は徹底的に彼自身の名と美術館の空間に結び付けられているのである。《遺作》が美術館において「芸術作品」から紡ぎ出される「芸術家」の像と関わるものであるからこそ、デュシャンはそれが問題となる「場」において積極的に芸術家の名を巡ってアイロニカルな身振りを演じるのである。《遺作》を巡って演じられてきた芸術家の名の濫用とも言うべきデュシャンの倒錯的な身振りは、まさにこの前提としての芸術家を露呈させるトリガーなのだ。
《遺作》を見るためには、私たちは近代美術史を彩る芸術家たちの作品を踏み越えて行かなければならない。ピカソ、シャガール、マティス、クレー、ダリ、そしてようやく「デュシャンの部屋」へ入ることを許される。もはや、私たちの視線は芸術家の名の鎖で縛られている。その視線は美術史という物語を見ることしかできない。かつて東野芳明は、《遺作》の扉が埋め込まれた薄暗い空間を、そこに至るまで「芸術作品」を「見ること」を強いられてきた眼を消毒するための空間であると言った。しかし、《遺作》のスペイン扉に穿たれた穴を覗きこむ者の視線は、決して消毒されてなどいないのだ。小部屋の中に貼られたプレートには、それが一つの作品であることを示す最小限の記述しか施されてはいない。本性においてさも当然のように語られてきた穴の中を「見る」行為は、扉の向こう側に「見るべき」空間が広がっていることを知っているか、デュシャンのことだから何らかの仕掛けがあるに違いないと勘繰る者だけしかなしえないものなのだ。扉に擦り寄らなければその場所さえわからない小さな二つの穴は、消毒されたはずの眼を再び曇らせるのである。《遺作》の「見ること」の呪縛からの解放は、デュシャンの名など全く知らず、扉のある薄暗い部屋に入った瞬間に、ここには「見るべき」「芸術作品」はないと判断してあっさり出ていってしまう、そんな者たちの視線にしか許されていないのだ。(P238-239)


長々と引用してしまいましたが、デュシャンの身振りは結局作家という役割に回収されます。
デュシャンは言います。

「私は芸術家ではないけれど、芸術家のように振舞っています。」

「私は芸術家以外の何者でもありません。そしてそのことを心から楽しんでいます。」


彼は今や芸術家であることは誰も疑問にしないかもしれませんが、彼をめぐる言説は、この100年ちょっとであらゆる方向にシフトし浮遊し彷徨ったそのスリリングな旅路を楽しめるとても面白い本でした。
またフィラデルフィア美術館行きたくなってしまいました。。。過去の記事はこちら
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