維新派「トワイライト」@奈良県曽爾村健民運動場

一昨年、去年に続き、維新派の舞台を観に行ってきました。
只今絶賛公演中なのでネタバレOKな方のみどうぞ

ということで3度目の維新派です。
毎度どうやって探してくるんだっていうロケーションですが、今回はマジで遠かった。。。
奈良県と三重県のほぼ県境に位置する曽爾村。そにむらと読みます。
古くは古事記や日本書記にもその地名が出てくるほど古い歴史のある村らしい。
近鉄榛原駅からバスでなんと45分。どこ連れて行かれるのかと思った。
着いたら着いたでどんどん山道を登って行って、ようやくいつもの屋台がお目見え。
屋台では高原ビールや鮎の塩焼きなどの地元料理からエスニックまで。普通におでんをいただき。
17時になり開場し、席に座ると見たこともないでかさのコオロギに襲われるなどの洗礼を浴びる。
山々を背景に、いつものように白い椅子が並べられただだっ広い運動場。今回はここが「舞台」。
18時から開演。凍えながら2時間の舞台を鑑賞。
で、いきなり結論から言いますと、去年一昨年の作品と比べると感動は大分弱かったのが正直な感想。
ロケーションもバックの山々を生かしきれてないというか、そもそも「トワイライト」というタイトルなのに、黄昏時がほぼ終わってしまってからのスタートであと1時間ぐらい早く開演してもよかったんじゃないかとさえ思えた。
また、曽爾村の歴史を取り入れているも中途半端で、いつもの島の話をされても、こんな内陸で説得力も薄い。というかストーリーがほとんど前回と変わってない感じすらする。。。
ということで、残念ながら期待はずれだったと言わざるをえません。
もちろん、途中の「普通ってなんやねん」という一連のセリフや、音楽、最後の靴をひたすら並べていく演出など感動できる部分も多々あったけれど、トータルで評価するなら首をひねります。
やはり去年一昨年の水のイメージがすごく強いので、それに比べるとやはり弱いです。
来年はまた瀬戸内国際芸術祭で発表されるのかな。期待しています。
「トワイライト」は27日まで。こちら。
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さて、この一ヶ月は展覧会というものをほとんど観ず、舞台と映画をいくつか。
中でもやはり地点は最高。帰国後の楽しみのひとつでした。
特に愛知芸術劇場で上演された新作「茨姫」は、期待をはるかに凌駕する内容。
元々コンペで選ばれた戯曲を舞台化するという企画で、元来チェーホフやシェイクスピア、ドストエフスキー等、海外の古典を中心に活動してきた地点にとって、現代の日本人が書いた戯曲というのはかなり異色。
しかしそんなギャップもなんのその。
今回は演者全員が眠りに落ちてるという演出で、寝言のように繰り出されるセリフたち。そして最後はあくびでほとんどのセリフが途中で終わっちゃう。
「お母さんね、最近雑誌で読んだんだけど、男性をセクシーだと思う場面って特集で、上位に真剣に仕事をしている姿と髪をかきあげる仕草ってのがあったの。でもそれって金八先生よね!?私金八先生のことをセクシーだなんてこれっぽっちも思ったことないんだけど、世の中の女性はみんなあれを見てセクシーだと思っているのかしら!?」みたいなセリフがあって、会場中大爆笑でした笑
かなり遊びのきいた舞台で、いつもの地点より肩の力がいい意味で抜けてて、あっという間の90分。
それにしても、自分が書いた戯曲をこうした一流の人たちに演じてもらえるのって素晴らしい体験だなと思いますね。こういうコンペは日本で珍しいと思います。
戯曲自体もダウンロード可能。こちら。
そして、いつものアンダースローでの舞台「かもめ」も見ました。
スイスで上演直後の言わば凱旋公演。自分の帰国と入れ違いで悔しい。。。
この演目自体は一度違う場所で観たことはあるのですが、当時はただただ地点の凄さに圧倒されていたのが、今回は内容が痛いぐらい入ってきて、何度も辛い気持ちに襲われました。
圧倒的な熱量で繰り出される彼らの演技と、チェーホフが描き出す「人間はわかりあえない」という普遍的なアイロニーが驚くほどにまっすぐに飛び込んできて、胸が苦しくなりました。
地点のこの振り幅の果てしなさに魅了されて止みません。
これから彼らは3月までに新作3作も控えていて、それに加えアンダースローでのレパートリー。。。どういう脳みそしてるんだろう。。。なんとか新作3作は全部観たいと思っています。
最後に映画。
奇しくもアーティストにかんするドキュメンタリーが続きました。
「フリーダカーロの遺品 石内都、織るように」
「未来をなぞる 写真家・畠山直哉」
「ブリージング・アース:新宮 晋の夢」
上の二つに関しては、石内さんと畠山さんという現代写真を代表する二人なだけあって確かに活動自体は面白いんだけど、わざわざ金払って観るような内容じゃなかった。あまりにも被写体任せな感じがあまりに無責任だと思う。
昨年のパリフォトで観た石内さんのフリーダの作品は確かに出会うべくして出会ったというべき感動があって、その舞台裏に迫っているのは興味深いんだけど、ただ映してるってだけで、監督がどこにこだわって撮ってたのかまでは全然伝わらなかった。
畠山さんのフィルムに関しては、もう畠山さんに全部依存しちゃってる感じで呆れてしまった。
確かに彼の震災以降の活動は興味深いけれど、わざわざこのようなフィルムにする意味までは感じられない。
それに対して新宮さんのドキュメンタリーはドイツ人の監督で、ものすごく美しい映像が素晴らしかった。
新宮さんは僕の美術の扉を開けてくれた人なんだけど、正直今の活動自体はそこまで面白いとは思えないけれど、映像がとてつもなく審美的で、食い入るように見てしまった。
新宮さんが見えない風をビジュアル化するように、この監督も見えないものを映そうという気概が画面からひしひしと伝わってきて、新宮さんの活動と映像自体がシンクロしている感じ。
やはりドキュメンタリーは撮ってるだけになったらホームビデオと変わらなくなってしまう。
そこに監督がどういう美学を注ぎ込んで撮ってるのかが伝わらないと、観客がわざわざ足を運んでお金を払って観るものには直しないと思う。
当たり前なんだけど、この当たり前があまりにないがしろにされてるドキュメンタリーが多すぎる。
今度また内藤礼さんのドキュメンタリーがあるとのことなので、大阪で始まったら是非観てみたい。