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「知覚の現象学」by モーリス・メルロ=ポンティ

ドイツ哲学をとりあえず終えてフランス近代思想へ。
まずは現象学のメルロ=ポンティです。
続きは以下。

さて、現象学。
本当は先にフッサールを読んだ方がいいのかもしれないけど、「イデーン」とか長すぎて読む気がしない。
とりあえず「現象学の理念」は読んだけれど、どうして現象学が必要なのかってことがひたすら書いてて、本題までは行き着いてない感じでした。ほぼ流し読みですが。
カント、ヘーゲル、ハイデガーとカチッとしたドイツ哲学をしばらく読んでたので、メルロ=ポンティの流れるようなフランス語の文体に最初戸惑いました。ある意味心地いいんですが、ともすれば何も読み込めてないまま流れていってしまう危険性が。。。
ちなみに昔「眼と精神」を読んでて、最後まで流れちゃった経験があります。危険。
そして、ドイツ哲学がなぜ観念論と呼ばれるのかはメルロ=ポンティを読むとよくわかります。
彼の哲学(現象学)は徹底して身体に依存していて、病理学にも関わってきてより実際的。
他にもレヴィ・ストロースやベルクソン、この後のドゥルーズやフーコーなんかも、現実との結びつきが非常に強い。ドイツ哲学との対比がわかりやすいですね。
また、彼の哲学全体に及んでいる両義性も気持ちがいいです。
とにかく読んでいて心地よかったです。でもまとめるとなると中々。。。
彼の文章はとにかく、全体のまとまりより、部分部分の散文詩的な印象が強いです。
なので、下手にまとめるよりもここでも散文詩的にテキストをピックアップ、ということで。。。

まず序文の冒頭で現象学とは何ぞやという話。

「現象学とは本質(essences)の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する。たとえば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが現象学とは、また同時に、本質を存在(existence)へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>(facticité)から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。」

「現実は記述すべきものであって、構築したり構成したりすべきものではない。」

「現象学的世界とは、先行しているはずの或る存在の顕在化ではなくて存在の創造であり、哲学とは、先行しているはずの或る真理の反映ではなくて、芸術とおなじく或る真理の実現なのだ。(中略)われわれは諸経験の接合というこの驚嘆すべき事実をたえず目撃しているわけであり、したがって、それがどのようにおこなわれるかを、われわれより以上に知っているものは誰もいないのであって、それというのも、われわれこそが諸関係の結び目だからである。(中略)真の哲学とは、世界を見ることを学び直すこと」

「現象学は世界の開示として、自己自身に根拠を置いており、言い換えると、自己自身を基礎づけている。」


以上は序文の大事と思しき部分。

そして序論では、科学によって失われた世界の豊かさを語ります。
さらに、経験論と主知主義がいかに誤りかをひたすら列挙していきます。

「経験論に欠けていたものは、対象とそれによってひきおこされる〔注意〕作用との内的連関であった。ところが主知主義に欠けているものは、思惟をはじめる機会の偶然性である。前者の場合には意識があまりに貧弱すぎ、後者の場合には意識があまりに豊かすぎて、いずれの場合でもどんな現象も意識を生起させる(soliciter)ことができないのだ。われわれは自分の探求するものをあらかじめ知っている必要があり、そうでなければわれわれはそれを探求しもしないわけだが、そうしたことが経験論にはわからない。一方、われわれは自分の探求するものをまえもっては知らない必要があり、そうでなければわれわれはあらためてそれを探求するはずもないわけだが、そうしたことが主知主義にはわからないのである。双方とも、学びつつある意識というものを把えないという点で、この輪郭づけられた無知、このまだ<空虚>だがしかしすでに決定された指向ーこれこそがまさに注意ということなのだがーを尊重しないという点で相一致しているわけである。(経験論の場合のように)、注意が自分の求めるものをそのつど奇蹟の更新によって獲得するにしろ、あるいは(主知主義のように)、注意があらかじめそれを所有してしまっているにしろ、双方の場合とも、対象の構成は不問に附せられてしまうのだ。対象が(経験論でのように)所性質の総和であるにしろ、(主知主義でのように)諸関係の体系であるにしろ、それが存在するとなると、もうそれは純粋で透明で非人称的でなければならぬということになり、実際にそれが意識に浮かび出てくるままの姿のような、不完全なもの、私の生活と認識にとってさしあたっての心理といったものではあってならぬということになる。知覚意識が科学意識の正確な諸形態と混同され、未決定なものは精神の定義づけのなかに入らなくなる。主知主義の意向に反して、だから二つの学説は、注意が何ものも創造しないという思想を共有しているのであって、それというのも(経験論の)印象の世界それ自体にしろ(主知主義の)決定的思惟の世界にしろ、等しく精神の活動から逸脱したものだからである。」

「私がどこに自分があるかを知り、自分が諸物のただなかにあることをみずから見ているからには、私は一つの意識であるはずであり、そこにも駐在することなくしかも指向としてはいたるところに自分を現前させ得るような独特な存在であるはずである。存在する一切のものは、物として存在するか、それとも意識として存在するかのいずれかであって、その中間というものはない。物は或る場所に存在するけれども、知覚はどこにも存在するものではない。なぜなら、もしも知覚がどこかに状況づけられてしまっていたならば、知覚は他の諸物を己れ自身にたいして存在するようにさせることなぞできないであろうからであって、それというのも、そうなれば知覚は諸物とおなじ仕方で自分のなかに自足することになるからである。知覚とは、したがって、知覚することについての思惟である。


はい、次第一部「身体」。
ここではゲルブとゴルドシュタインによって報告された、戦争で後頭部に傷を負ったことで身体機能に障害を帯びたシュナイダーの症例を持ち出して、欠損からあぶりだされる身体の知覚を論じます。
この身体こそ、知覚の本拠地であり、また、彼の両義性がラディカルに表れる箇所でもあります。

「病人は自分の損傷を否認するまさにそのかぎりでその損傷を知っているのであり、逆に彼がそれを知っているまさにそのかぎりでそれを否認するのである。こうした逆説は、世界内存在全体のもつ逆説である。すなわち、世界へと向かうことによって、私は自分の知覚的指向や実践的指向を、けっきょくはそれらの指向に先立ってその外部に在るものとして私にあらわれている所対象へと炸裂させるが、にもかかわらず実はそれらの諸対象は、それらが私のなかに思惟や意思を喚起するそのかぎりでしか私にとって存在しないものなのだ。」

「<生理的なもの>と<心理的なもの>とを相互に結合することをわれわれに可能にする所以のものは、その双方がともに実存のなかに再統合されて、もはや即時の秩序と対自の秩序というようには区別されるものでないこと、その双方とも一つの指向的極へと、換言すれば一つの世界へと方向付けられていること、これである。」

「<思惟の世界>、つまりわれわれの精神的働きの沈殿というものがあって、その結果われわれは、自分があとから獲得した概念や判断を、あたかもそのつど綜合をやり直さないでも全体的にあたえられてすでにそこに在る事物のように、当てにすることができるようになる。われわれにとって、強調された領域と漠然とした領域とをともに含む一種の精神的パノラマのようなものが、探求や発見や確信などの知的状況や質問の一種の表情のようなものが存在し得るのも、このようにしてである。(中略)意識の本質とは、みずからに一つまたは幾つかの世界をあたえること、つまり、自分の眼前にその固有の思惟を事物のように展開することである。そして意識は、このような光景をみずから描きだすことにも、またそれを棄却することにも、ひとしく己れの活力を証明するものである。世界なる構造は、沈殿と自発性とのその二重の契機をもって、意識の中心部に座している。」

「一篇の小説、一幅の絵画、一曲の音楽は、それぞれ不可分の個体であり、そこでは表現と表現されるものとを区別することができないような存在、直接的な接触による以外にはその意味を手に入れることはできぬような存在、現に在る時間的・空間的位置を離れないでその意味するところを放射するような存在である。われわれの身体が芸術作品と比較し得るというのは、そういう意味においてである。われわれの身体は、いくつかの生きた意味の結び目であって、幾つかの共変項の法則といったものではない。」

「眼が物から獲得するところは、眼が物に問いかける仕方、眼が物のうえを滑ってゆくかそこに停滞するかというその仕方によって、多かったり少なかったりするものだ。色が見られるようになるとは、視覚の或る様式、自己の身体の新しい使用法を獲得することであり、身体図式を豊かにし再組織することである。運動力または知覚力の体系としてのわれわれの身体は、<われ惟う>にとっての対象ではない。むしろ、己の平衡状態へと向かってゆく生きられた意味の総体である。」

「多義的なことが人間的実存に本質的なのであって、われわれの生きている一切のもの、あるいは思惟している一切のものは、いつもいくつもの意味をもっている。」

「実存はそもそもその根本的構造からして、それ自体で不確定的なのであって、というのも、それ自体では意味をもたなかったものが意味をもつようになり、性的意味しかもたなかったものがより一般的な意味作用をもつようになり、偶然的なものが理由あるものとなるーこうしたことを可能にする操作こそがすなわち実存だからであり、実存とは事実的状況の引き受けだからである。実存が事実的状況を自分なりに引き受け、変革するこうした運動を、われわれは<超越>と名づけるであろう。こうして実存とは超越であればこそ、かえって実存は、けっして決定的には何ものをも乗りこえはせぬのであって、なぜなら、そんなことをすれば、実存を定義づけている緊張が消滅してしまうだろうからだ。実存はけっして自分自身を放棄しはしない。実存の内容をなすものは、実存にとってけっして外面的でも偶有的でもあることができないのであって、それというのも、実存はそれをみずからのうちに引き受けるからである。(中略)実存とは諸事実を己れが身にひき受ける運動そのもののことだからである。」


はい、こんなとこでしょうか。。。
メルロ=ポンティの哲学は、ひたすら主観や客観といった二元論をかき混ぜて両義的、多義的に世界を捉えるところにありますが、それゆえに結局どういうこと?ってなることもしばしば。。。とても美しい態度だとは思うのだけど、文章にするとわかりにくくなるのは仕方ないですね。

続いて第二部。今度は世界についてです。ハイデガーの「世界=内=存在」とも繋がってます。以下また抜粋。

「なぜ世界はけっして<全面的に>ではなく、徐々にしか展開しないのか、そして最後に、われわれが知覚するといったことがおこるのはどうしてなのか。われわれがこれらの問いを理解するとすれば、それは経験的自我と身体とがそのまま対象であるということはないし、けっして完全にはそうなりきれないからであり、私が私の眼で蜜蝋の塊を見ていると言うことに或る意味があるからであり、またそれと相関的に、反省によってわれわれの内奥に開かれ、超越論的<我れ>とよばれているあの不在の可能性、あの逃走と自由の次元がはじめからあたえられてあるものではなく、またけっして絶対的に獲得されるものでないからであり、私がけっして絶対的な意味では<私>と言うことができないからであり、そしてあらゆる反省作用、あらゆる自発的な態度決定が前人称的意識生活の基底と提案のうえに築かれているからにほかならない。」

「感覚する者と感覚されるものとは二つの外的な項のようにたがいに面と向かい合っているのではないし、また感覚は感覚されるものが感覚する者のなかへ侵入していくことでもない。色をささえるのは私のまなざしであり、対象の形をささえるのは私の手の運動なのである。あるいはむしろ、私のまなざしが色と、私の手が固いものや軟らかいものと対になるのであり、感覚の主体と感覚されるものとのあいだのこうした交換においては、一方が作用して他方が受けるとか、一方が他方に感覚をあたえるとか言うことはできないのだ。」

「見たり触れたりするのは正確には私自身ではない、なぜなら、見える世界や触れる世界は世界全体ではないからである。私がある対象を見るときにいつも体験するのは、私が現に見ているものの向こうになおなにか存在があること、見える存在ばかりでなく、触知できる世界や聴覚によってとらえうる存在が、ーそして感知できる存在ばかりでなく、さらにはどんな感覚的先取りによっても汲みつくせない対象の深みがあるということである。それと相関的に私のほうもこれらの〔感覚的〕働きのなかにそっくり没入しているわけではなく、それらはあくまでも辺縁的なままにとどまり、私に先立って生起する。見る私や聞く私はいわば専門化した私であって、存在の或る一つの区域にしか精通していない。そしてまさにこれとひきかえにしてはじめて、まなざしや手は知覚を明確化していくところの運動を見抜くことができるのだし、またこの予知の能力によって自動機械であるかのような外観をみずからにあたえることもできるのである。」

「身体は、それがもろもろの<ふるまい方>をするかぎりで、自分自身の諸部分を世界の普遍的象徴系として利用する奇妙な対象であり、だからこそわれわれはこの対象を通してこの世界と<交際し>、これを<了解し>、またそこに或る意味を見いだすことができるのだ。」

「われわれがまっすぐ立っているのは骨格の機構によるのでもなければ筋緊張の神経性調節によるのでさえなく、われわれが世界とかかわり合っているからである。こうしたかかわり合いがなくなれば、身体はがっくり倒れてただの対象になりさがる。」

「知覚するということは、諸経験の未来全体を、厳密に言えばそれをけっして保証してはいない現在のなかへ、一挙に巻き込むことであり、一つの世界の存在を信じることである。世界へのこういう開かれた態度こそ、知覚的真理を、Wahr-Nehmnug〔真なるものの=把握=知覚〕の真の実現を可能にしてくれるものなのであり、また、先行の錯覚を<抹消>して、それを無効なものと見なすことをわれわれに可能にしてくれるものなのである。」

「眼は精神ではなく、一つの物質的器官である。それがどのようにして何かを「考慮に入れる」ことができるというのか。それが可能なのは、われわれが客観的身体(le corps-connaissant)とならんで、現象的身体(le corps phénomenal)を導入する場合、われわれがこれを認識する身体(un corps-connaissant)として扱う場合、そして最後に、われわれが、知覚の主体として、意識の代わりに実存を、すなわち、身体をとおしての世界内存在(l'etre au monde à travers un corps)をとりあげる場合、だけなのである。」

「物は私の身体の、そしてより一般的には私の実存の相関物であって、この場合、私の身体は、私の実存の安定した構造にほかならない。物はそれにたいする私の身体の手がかりのなかで構成されるのである。物はまた、まずもって悟性にたいする意味であるのではなく、身体の視察によって捉えられる一つの構造(中略)物は、それを知覚する人から分離することはけっしてできないし、実際に即時的に存在することはけっしてありえない。(中略)一切の知覚は一つの交わり(communication)もしくはひとつの合体(communion)であって、それはわれわれによる或る未知の指向の引き受けないし完成であり、また逆に言えば、われわれの知覚能力の外部的実現なのであって、われわれの身体と物とがいわば対になることである。(中略)すべての物は一つの環境の凝固物であり、また或る物の明確な知覚は、そのどれもが或る種の雰囲気と事前の交りを糧としている。」

「身体をもつということは、一つの普遍的モンタージュを所有することであり、つまり、われわれの実際に知覚する世界部分を超えて、すべての知覚的展開とすべての相互感覚的照応の基本型を所有することなのである。してみると、物というのは知覚のなかで実際にあたえられるものではなく、われわれによって内面的にとりもどされ、再構成され、かつ生きられるものであって、しかもそれは、われわれがその根本的構造をにない、物がその可能な具体物の一つにほかならぬような世界にその物が結びついているかぎりなのだ。」

「世界が現実であるかどうかを自問することは、人の言うことを理解することではない。というのも、世界とはまさしく、つねに疑いをさしはさみうるような諸物の和ではなく、そこから物を引き出せるような無尽蔵の貯蔵所だからである。」


これまでのドイツ哲学者と違って、本当にロマンチックな文章が多いです。
プルーストやセザンヌなどの芸術家の引用も多く、一つの文学のよう。
それに惑わされがちなのも事実なのですが。

最後第三部は「世界内存在」としての立ち居振る舞い方ですね。

「意欲する(vouloir)とは、或る対象を価値あるものとして(あるいは、意欲が〔嫌忌へと〕逆転すればそれが価値あるものではなくなるまさにそのかぎりで価値あるものとして)意識すること以外の、何ものであろうか。また愛するとは、或る対象を愛すべきものとして意識する以外の、何ものであろうか。或る対象についての意識は、かならず自分自身についての知を含みこんでおり、そうでなければその意識は消え去って、己れの対象をさえ捉えることがなくなるであろうから、意欲することと自分が意欲していることを知ることとは、また、愛することと自分が愛していることを知ることとは、ひとつの行為でしかないのであり、愛とは愛することの意識、意欲とは意欲することの意識である。自己を意識せぬような愛とか意欲とかは、愛さぬ愛、意欲せぬ意欲ということになってしまい、それはあたかも、無意識的な思惟とは思惟せぬ思惟とうことになるのと相同じい。

「<我れ惟う、我れ在り>という命題にあって、二つのリツゲンはまったく等価なのであって、でなければ、およそコギトというものは存在せぬであろう。だが、この等価という意味についてもよく了解に達しておかねばならぬのであって、つまり、<我れ惟う>がとくに<我れ在り>を含むわけでもなければ、私の実存がそれについての私の意識に還元されるわけでもなく、かえって逆に、<我れ惟う>の方が<我れ在り>の超越の運動に、意識が実存に再統合されるのである。」

「時間は線ではなく、指向性の網なのである。」

「過去とは古い未来であり、またごく最近までの現在なのだし、現在とは間近な過去でありまたごく最近までの未来なのであり、最後に未来とは来るべき現在であり、また来るべき過去だからなのであり、言いかえれば、時間のそれぞれの次元はそれ自身とは別のものとして扱われ目指されるからなのでありー最後にもういちど言いかえれば、時間の中心にひとつのまなざし、あるいはハイデガーの言うように、ひとつのAugen-blick(まな=ざし=瞬間)、つまり<として>という言葉に意味をもたせうるような誰かがいるからなのである。」

「私が時間のうちに置かれているからこそ、つまりは、私には全存在が生身であたえられているわけではないからこそ、そして最後に、存在の一区劃が私のきわめて近くにあってそれが私のまえの画面にはまらず、ちょうど自分の顔を見ることができないように、私にはそれを見ることができないようになっているからこそ、私にとって時間があるのだ。つまり、私がひとつの現在をもっているからこそ、私にとって時間があるのである。」

「われわれはまったく能動的であると共にまったく受動的なのであって、それは、われわれが時間の出現そのものだからである。」

「われわれにとって時間が意味をもつのは、われわれが「時間である」からでしかない、と。われわれが過去にあり、現在にあり、未来にあるからこそ、われわれは時間というこの言葉のもとに何事かを考えることができるのだ。」


こうして、私たちは世界に受肉した身体として、物を、時間を、世界を、我れを知覚するわけですね。
最後の「自由」はかなりおまけ的な印象だったんですけどなんだったんだろう。
最後はちゃっかりサン=テグジュペリで締めちゃうのが小憎いですね。

「君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ・・・君は自分を身代わりにする・・・君というものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明なのだ・・・人間というのはさまざまな絆の結束点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。」



追記
メルロ=ポンティの読みにくさに関して偶然つい最近の記事を発見しました。コメント欄も含めて興味深いのでリンク貼っておきます。
わかりにくさの陥穽(「対話空間_失われた他者を求めて」より)
『知覚の現象学』の概括──生きられた世界の開示(同)
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