「存在と時間」by マルティン・ハイデガー

いよいよハイデガーです。
カントから始まったドイツ哲学のピークは彼にあったと言っても過言ではないでしょう。
彼の後にもアーレントやアドルノがいますが、やはり彼と比べちゃうとね。
この後の思想史はむしろフランスに移ってしまいます。
続きは以下


さて、ハイデガーの主著「存在と時間」です。
なぜか学生時代クラスで「ハイデガー 存在神秘の哲学」(古東哲明著)という本が流行って、僕も読んで感動して、調子に乗って本家ハイデガーの本を読もうとして2ページぐらいで挫折した苦い記憶があります。何の本だったかももはや覚えてない。。。やはり彼のテキストはドイツ語の背景が物凄く強くて、翻訳も無理矢理訳さざるを得ず、ルビだらけのその文章に完全にノックアウトされました。
なので、正直かなり苦手意識があったのですが、あの頃より少しはドイツ語の知識もあるし、カント、ヘーゲルと読んでいくと、むしろ物凄く面白くて刺激的でした。勿論難解ではあるんですが、今まで読んできた中でダントツでおもしろい。目を開かされる部分が多々ありました。
ニーチェはエッセイ的おもしろさがあって、純粋に哲学としてはどうかなと思えたので、この本は哲学的おもしろさに溢れていますね。

さて、その「存在と時間」ですが、まさに「存在とは何か」という、アリストテレス以来西洋哲学史において、棚上げにされてた問題を大胆に取り上げてます。そのためにまず重要なキーワードは大きく3つ。

現存在(Da-sein)ー自分自身に対してその存在を「問う」存在(人間)。
存在論的(ontologisch)ー存在者が存在することそのものを問う様。(存在を前提とした存在的ontischと区別)
実存(Existenz)ー現実に存在するそれ自体。目の前にあることVorhandenheit。(対概念: 本質 Essentia)

現存在が存在論的な態度を自分自身に対して取った時、それは実存と名付けられる。
また、その実存の究明に際して用いられる方法が現象学(Phänomenology)。
ちなみにハイデガーはフッサールの助手も務めていたほどで、そもそもこの本もフッサールに捧げられた程現象学に傾倒しているのですが、あくまで現象学は存在を究明するための方法に過ぎないので、フッサールとはこの本を機に袂を別つことになります。しかしここから現象学方向にはメルロ=ポンティ、実存主義方向にサルトルに分かれていくという、やはりハイデガーは20世紀哲学のメルクマール的存在ですよね。

「存在論と現象学とは、その他の学問と並んで、哲学に属している二つのことなった学問というのではありません。この両者の名称は、哲学そのものを、対象とその取り扱いに従って、それぞれ特長づけているのです。哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学的存在論であって、この解釈学は実存の分析論として、一切の哲学的問いの導きの糸の末端を、この問いがそこから跳びだし、またそこへ跳ね帰ってゆくその場所で、固く結んでいるのです。」


また、この本は、未完の書としても知られていて、ハイデガー自身が序論で挙げた章立てのうち、1/3ぐらいしか書かれていません。
そのうち、大きく第1編と第2編に分かれていて、大雑把に第1編で存在を問うことそのものについて、第2編でその存在と時間性について取り扱われてます。

第1編で最大のキーワードが世界・内・存在(In-der-Welt-sein)
この考え方は個人的にすごくおもしろかった。
つまり、世界が先にあるんじゃなくて、現存在が世界と出会うことで世界が出来上がっていく様。
世界とは現存在が出会う環境世界のこと。それは「見まわし(Umisicht)」によって「配慮(Besorgen)」的に出会う世界。
例えばハンマーは、最初からハンマーとして存在してるのではなく、現存在にとっては、あくまで釘を打ったり、敵を殴ったりという有用性(適在性)=道具存在(Zurhanden-Sein)としてある。しかも普段はその存在を存在として意識することはないけれど、それが壊れた時やなかった時にこそ、この「存在」が強調される(目立つ)。こうして現存在は世界と出会っていく。
さらに現存在が出会う世界は物から空間へ広がっていく。この広がり方がまたおもしろい。
ハイデガーの言うこの世界・内・存在における空間性は、物理的な距離を全く意に介さない。

「距たりを無くす働きは、まずたいていは、見まわしによって近づけること、つまり、供給したり、準備したり、、手元に置いたりして近づける働きです。しかし存在するものの純粋に認識的な発見作用という特定の種類のものもまた、近づけるという性格をもっています。現存在には、近さへの本質的な傾向があります。わたしたちが今日、多少の差はあれ参加を強いられているあらゆる種類の速度を高めることは、遠隔性の克服をめざす競争です。たとえば「ラジオ」でもって現存在は今日、日常的環境界の拡大という方法によって、現存在の感覚ではまだ見極めがたいような「世界」の<距離を=取り除くこと>を成しとげています。」

「たとえばメガネをかけているひとにとっては、メガネそのものは距離的にははなはだ近く、かれの「鼻にのっかっている」が、この使用中の道具は、かれにとっては、真向こうの壁にかかっている絵画よりも環境的には遥かに遠いのです。この道具は、それがしばしば当初まったく気付かれないほど近くにあるのではないのです。見るための道具は、それと同じ聴くための道具、たとえば電話の受話器のように、まず手元にあるものの、先に述べたあの目立たなさをもっています。これはまた、歩行するための道具である街路にも当てはまります。たとえば歩いてゆくときに、街路は一歩毎に触れられていて、およそ手元にあるもののなかで最も近いもの、最も実在的なものだと思われています。いわば街路は、肉体の特定の部分すなわち足の裏に沿って移動するのです。それにもかかわらず街路は、こうして歩いている人に「路上」二十歩「距てて」出会う知人よりも遥かに遠いのです。環境的にまず手もとのものの近さと遠さを決定するのは、見まわしによる配慮の働きです。この働きがはじめからそのもとに留まっているそのところが、「最も近いもの」でありまた、「距てをなくすこと」を規制しているのです。」


引用が長くなりましたが、もうこの辺は膝を叩く勢いで納得。
世界と現存在である自分はこうして出会ったり出会わなかったりしてるんだと改めて気づかされました。

続いて世界・内・存在は、他者と出会う。この時、他者と世界の分かち合いをしていく際に現存在は「共同存在)Mitsein)」に変貌する。
「現存在のだれかがまさに、そのつどわたし自身ではないこともあり得よう」
これはすごい考え方だなと思いつつ、確かに世界は「わたし」という輪郭だけでは成立しない。
この時の輪郭とは、この肉体の物質的な輪郭のことではなく、「わたし」はその所有物にまで及んでいる。
そして、その輪郭は、他者の輪郭と重なる部分も必ず出てくる。
こうして、現存在は溶け合って、「共同存在」となります。
この考え方でいくと、人は完全にひとりになることは不可能。なぜならひとりという状態は他人がいることが前提となって初めてひとりという状態に行き着く。
「ひとりでいることは、共同存在のひとつの欠如的様相であって、前者の可能性は後者の証明です。」
「欠席や「不在」は、共同現存在の様相であって、現存在が共同存在であるために他人の現存在を自分の世界において出会わせるからこそ、可能なのです。」

この「共同存在」は現存在同士を見かえり(Rücksicht)=顧慮(Füsorge)によって成立する。
さらに、やがて共同存在は「ひと(das Man)」になり、「世間」と呼ばれる総体に落ち込んでいく。
「いつでも<ひと>で「あった」ということは、「だれでもなかった」と言うことに等しいのです。現存在の日常性においては、たいていのことは、わたしたちがだれでもなかったと言わねばならないようなものによって、引き起こされているのです。」
「本来的自己存在とは(略)<ひと>が示す実在的変容なのです。」

いやぁ、怖いですが、ぐうの音も出ないほどの説得力です。

続いて、現存在は世界の中でどう存在しているのかという問題。
この辺りは個人的にしっくりこなかったというか、あまりよくわかってません。
これには情態性(Befindlichkeit)、すなわち気分(Stimmung)が関わっている。
この気分を了解し、折り合いをつけながら現存在は現存在として世界の中で存在している。
了解は次のステップへ現存在を投企(Entwurd)する。
それを言葉(語りrade/陳述Aussage)にすることで、現存在は気分を解釈する。
しかしここで、現存在は道をよく踏み外す。
実際日常において、このステップは、ただの「おしゃべり」や「好奇心」でしかなくなり、「曖昧さ」に転落(Verfallen)していく。そして非本来的なものへと堕落(Absturz)していく。
こうして日常性に投げ入れられた(被投性Geworfenheit)現存在にとって、際立った姿で現れるのが不安Angst。何に不安なのか。自分自身に、となって、さらに現存在の存在の根源は関心Sorgeである、となっていくんですが。まったくわからん。。。
この辺僕の中のこの本の明瞭さはどんどんくすんでます。

余談ですが、ハイデガーの思想の中に、「住む」という概念があります。
ちょっと戻りますが、「内・存在 In-Sein」を説明した項から抜粋。

「「なかに in」は<なかに住むinnan wohnen>、<住んでいるhabitare><滞在している sich aufhalten>、から由来してるいるし、「にan」は、<わたしが或るものに慣れている>、<親しんでいる>、<いたわっている>ことを意味します。つまりこの<に・あるIn-Sein>という語は、<わたしが住むhabito>と<わたしが好むdiligo>(ラテン語の)という意味における、<わたしが親しんでいるcolo>(ラテン語)という意味を持っているのです。この意味に<に・ある>が属している存在者を、わたしたちは、つねにわたしたち自身である存在するものと記してきました。<わたしは>「あるbin」という表現は、「のもとにbei」と関連し、「わたしはあるich bin」とはさらに、<わたしが何かのもとに住む ich whone bei...>、<何かのもとにとどまる>、<このように親しんでいるものとして世界のもとにある>、ということを意味しています。「私はあるich bin」の不定形としてのあるsein、すなわち実存カテゴリーと解されたザインは、<なにかのもとに住む>、<なになにと親しんでいる>という意味です。したがって<に・ある>は、世界・に・あること〔世界・内・存在]という本質を具えた構造をもっている現存在の存在の、形式的な実存カテゴリー的表現です。」

また彼は不安についてこう説明しています。

「不安においては、或るひとにとって「気味が悪い」のです。この〔気味が悪いunheimlich(わが家のようでheimlich=ないun)]という点においてさしあたり、<現存在は不安のなかに在るのだ>というばあいの特有の無規定性、すなわち<何物もどこにも無い>ということが、表現されるのです。<気味の悪さUnheimlichkeit>は、そのばあい、同時に、<わが家=に=いない=こと Das nicht - zu - Hause - sein>〔落ちつかない、くつろげない、気楽でない]を意味します。」

このunheimlichという単語はフロイトの本にも出てきますが、この定義はハイデガー独特のもの。
彼はなぜかものすごく「住む」ことにこだわるんですよね。
この辺りは前に触れた「暇と退屈の論理学」にも出てきます。

閑話休題。第二編に移ります。ようやく半分。。。
ここからは主に、タイトル「存在と時間」の「時間」に関してです。

「現存在が、一般に存在といったものを漠然と理解し解釈している根源が、時間であることが示されねばなりません」

と、もう既に序説の最初の方で断言されていました。ついに核心ですね。
例えば現存在の全体と考えたときに、どこからどこまでが全体なのかという問題があります。
単純に言えば、それは「誕生から死まで」になるでしょう。
現存在は生まれ落ちてスタートし、死ぬことでエンディングを迎えます。
が、そうなると、現存在は現存在の全体を把握することは不可能。なぜなら自分の死を客観的に捉えることはできないから。(他人と交換不可能)
しかし現存在はやがて来る死を先駆的に覚悟することができる。
この死への覚悟性Entschlossenheitこそ、日常に堕落した非本来的な「ひと」から本来的な「自己」を取り戻させる契機となる。死を思うこと。死への不安としっかり向き合うことが重要なんですね。memento mori。
でも「ひと」が「自己」を取り戻すのは容易ではない。やはり「死」は考えたくないトピック。
そこで登場するのが「良心Gewissen」。
良心の声なき呼び声を聞くことで、「ひと」に堕落した「自己」は目を覚ます。
その良心の声を聞くためには、「良心を=持とうと=欲することGewissen-haben-wollen」が肝心。
ここで言ってる良心とは、既にしたことに対して気が咎めるとかいうものではなくて、人間が本来的に持ってる「責め在ることSchuldigsein」のことです。(ややこしい)
ここでは、やたら本来的/非本来的な定義が出てきます。
最も重要なのは、「現在」「過去」「未来」の捉え方。

本来的 =瞬間Augenblick/取り返しWiederholung/将来Zukunft
非本来的=現前Gegenwärtigen/忘却Vergessenheit/予期Gewärtigen

本来的な生き方は、瞬間瞬間を生き、過去を反復し、未来を先駆する生き方。
非本来的な生き方は、目の前のことだけを見て、過去を忘れ、ありもしない未来に期待する生き方。
本来的な生き方は、自分たちが「有限的な実存」だという先駆的覚悟によって成立します。
まあ、ごもっともな意見ですが、ごもっとも過ぎて首をかしげちゃいますよね。
実際「本来的」という考え方は、この書における最大の批判点です。
「暇と退屈の論理学」でも書かれていましたが、果たして本当にそんな「本来」なんてあるのか?それが誇大妄想的になりすぎると逆に危険な思想に、例えば実際ハイデガーはナチスにこの後傾倒していくわけですが、そういう危険性も多いに孕んでるわけです。(ちなみに彼の師であったフッサールも、彼の愛人であったアーレントもユダヤ系ドイツ人だったにも関わらずハイデガーがナチスに傾倒してしまうのは解せなさすぎる。。。)
逆にハイデガーの揶揄する「ひと」のようなあっけらかんさもたまには必要なわけで、むしろ何者でもない自己というのはそれはそれで特別な体験だと個人的には思います。

ちなみにこれ以降歴史や運命など、時間性について論じられていくわけですが、あまり興味をそそられませんでした。空間性の方がおもしろかった。
ヘーゲルの時間性をアリストテレスの焼き直しだと批判してるあたりはおもしろかったです。

というわけで、6割ぐらいしか理解できてないけど、とりあえず読破。
この手の哲学は、最後の解決方法より、最初の問題提起の方が圧倒的に面白いですね。
前半で、かなり目を開かされました。
後半疑問が残るものの、半世紀以上経っても色あせないハイデガーの思想はやはりすごいです。
このままの勢いで、現象学、実存主義に突入します。

参考サイト:
Yamatake's Psychology Site
村のホームページ
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