「精神現象学」by G.W.F.ヘーゲル
ニーチェと前後しますが、哲学の巨人ヘーゲルです。
ということで読みたい人だけどうぞパターン。
ということで読みたい人だけどうぞパターン。
難解、で知られるこの本ですが、本気で何言ってるかわからなかった!
カントって易しかったんやと思わされました。辛かった。
もう序文からちんぷんかんぷん。
序文読んで、初めて読みきれないかもと思わされた本です。
でも悔しいので読みます。
まあ、日本語訳が比較的易しいとされる長谷川宏訳ではなく、難解とされる樫山鉄四郎訳なので余計わけわかんないのかもしれません。
で、その序論。
全体を通してなんとなくヘーゲルがやりたいんやろうな、っていうのは、哲学をちゃんと体系化して、学問にすること。
カントのところでも書きましたが、それまで哲学というのは、数学や科学と違って抽象すぎて、説明がつかない曖昧なものという感じが当時の空気としてあったんじゃないかと。
実際、この本の最初に計画されたタイトルは「学の体系」だったそうです。
「真理が現に存在するほんとうの形態は、真理の学的体系を措いてほかにはありえない。哲学が知という形式に一層近づくために、ーつまり、愛知という名をすてることができ、現実の知であろうとする目標に一層近づくために、ー努力を人々と分とうとするのが、私の企てたことである。知が学であるという内的必然性は、知の本性のうちに在る。そしてこの点についての満足な説明は、哲学そのものの叙述以外にはない。」
「私の考えは、体系そのものが叙述されたときに初めてなるほどと是認されるようなものではあるが、この私の考えによれば、大切なことは、真理を実体としてだけでなく、主観としても理解し、表現するということである。」
その真理を編み上げるために用いられるのが弁証法という円環。
「真理とは自己自身が生成することであり、自らの終わりを自らの目的として前提し、始まりとし、それが実現され終わりに達したときに初めて現実であるような円環である。」
ヘーゲルはむしろ数学の方がいろんなことすっ飛ばしてるじゃないかと揶揄します。
「数学は、このように欠けたところのある認識の明証性を誇りとし、哲学に対し自慢している。が、この明証性は、数学の目的が貧弱であることに、その素材に欠けたところがあることに、基づいているにすぎないのであるから、哲学が軽蔑せざるをえないようなものである。ー数学の目的つまり概念は量(大いさ)である。がこれこそは非本質的な、概念のない関係である。だから知の運動は表面に起こるだけで、事態そのものには触れない、本質つまり概念には触れない、だから全く概念把握ではない。」
そんな中、彼は有名な「弁証法」という方法で、極めて理知的に哲学を学として高めていってる。
その彼の前に現れた、カント、フィヒテ、シェーゲルをベースにヘーゲル理論を築き上げていく。
なので、カント読んでないとやっぱりヘーゲルは読めないと思います。
それでも何言ってるかわからないんですが。。。
この書はヘーゲルが30代の若さで、しかも出版社との関係で急いで書き上げたという事実もあり、文章的にうまいとは到底言い難いというのもあります。
ただ、やはりこの哲学を学問にしよう、体系化しようという彼の試みが、その後の哲学の発展を押し上げた部分でもあるので、まあ重要な書であることは確かみたいです。
で、ヘーゲルがまず取り掛かったのは意識の問題です。
そこに知と真理という概念が立ち上げられます。
「意識は、あるものを自分と区別しながら、同時にこのものと関係している。このことは、あるものが意識に対して在るものの存在という側面が、知である。だが、われわれは他者に対するこの存在と自体存在とを区別する。知に関係づけられるものは、また同じように、知から区別されこの関係の外に存在するものとして、置かれる。このような自体という側面は、真理と呼ばれる。」
意識を主観とも読み替え可能だと思うけど、序論でもヘーゲルはカントの客観という概念を否定して、すべては意識(主観)次第だと説きます。
意識があるものと区別する時の存在(対他存在)を知、関係する時の存在(自体存在)を真理と規定。
とりあえず先へ。
で、じゃあ意識ってどういう発展していくのって方向へ。
まずは、人間には感覚的な意識がある。カントでいう感性や直感ですね。
「これ(知)は、対象を、対象が在るからこそ知っているが、自らは有ったり、なかったりしうるものである。だが、対象は有る、すなわち真、実在である。対象は、知られているかいないかに関係なく、現に有る。対象は、知られなくとも、そのままで(恒常的に)有る。だが知は、対象がなければない。」
なんか「在る」と「有る」が混在してるのが個人的に好きじゃないし、この訳者はその違いをどう表現してるのか全くわからなくてイライラする文章ですが、でもなんとなく重要。
先の客観はないという結論から、じゃあ、それってデカルトの唯我論への後退じゃないかという疑問が浮かんだんですが、この文章読んでると、やはり対象の存在が世界の前提になってて少し安心。
で、カントと同様時間と空間の概念が登場します。
「いまが、このいまが示される。いま、それは、示されるときには、もはや存在することを止めてしまう。現にあるいまは、示されたいまとは別のものである。いまとは、現に在るとき、すでにもはやないような、まさにそういうものであることを、われわれは知る。われわれに示されるいま、それはあったものである。これがいまの真理である。そういういまは有の真理をもっていない。それでも、いまが在ったとういうこのことは真である。だがあったものは、実際にはいかなる実在でもない。あったものは現に在るものではない。しかるに、問題になっていたのは「在る」である。」
(1)私はいまを指摘する。いまは真であると主張されている。が、私は、そのいまをあったものまたは廃棄されたものとして、示す。つまり私は初めの真理を廃棄する。
(2)私は、いまがあったということ、廃棄されていることを、いまの第二の真理として主張する。
(3)だがあったものは現にあるのではない。私はあったもの、廃棄されたもの、第二の真理を廃棄し、そうすることによって、いまの否定を否定する、こうして、いまは現にあるという最初の主張に帰る。
この議論の円環こそが、ヘーゲル的弁証法と言われるものではないかと。
空間もこの論法でやっていくんですが、要は、「いまここ」なんてのは原理的に言えないと否定した上で、「いまここ」を言えちゃう背景にこの円環があるってことかなと。
しかしこの時点では、ものが「ある」ってことしか言えない。
対象が「在った」上で、じゃあ、それが何かわからないともちろんダメ。つまり知覚するということ。
例えば塩について。
「物(塩)は、われわれの眼にふれるから白いのであり、われわれの舌にさわるから辛くもあり、われわれの触覚にふれるから立方体でもあるにすぎない。これらの側面の種々相全体を、われわれは物から受けとるのではなく、われわれから受けとる。それらは、われわれにとっては、舌とは全く別の眼にふれると、そのように、それぞれ別々に現れるのである。そこでわれわれが媒体であり、ここでは、そういう諸々の契機は分離されて、自分だけであることになる。だから、われわれは、一般媒体であるというこの規定態を、われわれの反省であると考えることによって、一であるという物の自己相当性と真理とを維持するわけである。」
知覚は、あくまでわれわれを媒体としている。
これだとまだ、ヒュームの経験論のような、あくまで経験によるもので、塩が常に白く、辛く、四角い結晶をもつことにならない。
そこで出てくるのが悟性。悟性がこれらの性質を普遍的な法則に仕上げる力を持つ。
対象は他と区別し合いながらも、互いに結びついている。
この結びつきを法則として悟性は導き出す。
この区別と統一を繰り返す法則の運動をヘーゲルは「無限性」と呼ぶ。
この「無限性」は弁証法の否定→否定の否定→統一という運動に酷似していて、非常に重要。
ただ、この無限な円環こそが、ヘーゲルの文章をよりわかりにくさせてる要因にも思える。
あれ、さっきそれ否定してなかったっけ?ってのが多々あって、迷宮状態になる。
特にこの悟性の項はその円環が激しすぎて、もう何を読んでるのかわけがわからなくなる。
なんしか、ここまでカントを明らかに下敷きにしつつも、彼の立てた限界を超克しようという意思が伝わって来る。
さらに、悟性の力の法則にまで至った意識はここから自己意識の項へ進みます。。。
この自己意識もまた読みづらいっていうか、これを理解できる人本当に尊敬です。
自己意識は欲望だってとこまではなんとなくわかったんですが、他者が出てきてから何のこと言ってるのかわからなくなってしまった。。。
他者というのは、抽象的な他者じゃなくて、本当に人と人なんですね。
人と物の関係は前項で終わってて、今回から人と人の関係における意識。それが自己意識。
自分が自分であることを他人から認められたいっていう欲望。(相互承認)
その欲望は勝ち取らなければならなくて、そのためには自分を主人、相手を僕(奴隷)にするっていう書き方なんだけど、それって尾崎豊の「僕が僕であるために」ですね。
なんしか、主になったら自由を享受できるし、僕(奴隷)になったら主に対して恐れを抱きながら、労働で持って奉仕しなきゃならない。
しかし実はこの労働によって得られる経験こそ自己意識を自分自身のものにできるステップみたいなことが書かれていて、え、じゃあ勝った方が実は負けってこと?わけわからん!ってなる。
でもまあ、他人って何人もいるから、いつまでも連戦連勝ってこともありえないし、時には負けることもあり、その負けや挫折から学ぶことの方が多いっていう人生の教訓的なもんと考えればいいのかしら。
ヘーゲルの文章は、ぐるぐる回りすぎて読んでて本当にしんどいです。。。
とにかくこの労働論が後のマルクスに影響を与える重要なキーです。
(主に対する)恐れ→奉仕→形成のプロセスの果てに自分自身を、本当の自由を獲得する。でいいかな。
この後、ストア主義やら懐疑主義やら「不幸な意識」やら色々出てくるんですがもうお手上げです。。。
飛ばして理性。
この項はあまりに広範囲に渡りすぎてて、この人マジかと思いました。
特に前半の「観察する理性」で解剖学ぐらいまではなんとなくフンフンと読んでたけど、人相学、手相学と段々怪しい雰囲気になって、骨相学にまで至ったあたりでオイオイとなりました。しかも「理性とは骨である。」とかいう言葉まで出てきてヘーゲルさん疲れちゃったのかな?と心配になりましたよ。
後半の「行為する理性」はまだ合点がいきます。
彼のすべては主観である論が追求されてる感じ。
前半でも述べてる個性とは何かっていう点を、社会(世間)の中に移行して、個人の意識と集団の意識を取り扱います。
この項あたりは、なんだかやたら人間性が強くて、「幸福」や「徳」なんて言葉がじゃんじゃん飛び出しますが、結局社会に個性を世間に示すには、「行動」「仕事」「作品」=「ことそのもの」を示すしかないということになります。当然ちゃ当然のことですが、内面をいかにアウトプットするかってことですね。
このアウトプットする行為そのものが理性が辿り着く最高の結果だと。
しかしここからまた、絶対知という、個人だけの問題ではない問題にシフトしていきます。
その最たるものが立法なんですがこの辺り中途半端に終わってる印象。
多分彼のこの後の代表作「法の哲学」に詳しいんでしょうが、もうお腹いっぱいです。
さて、下巻では「精神」「宗教」「絶対知」という章に分かれています。
しかし下巻のこの章立ては、ヘーゲルが無理矢理付け足したとか、全体の中で特に「精神」と「宗教」はどういう位置にあるのかというのが諸説様々。
まあ、あまり深く立ち入りませんが、むしろこの下巻は、ヘーゲルの「哲学を学問にする」という初心に返った感が個人的にありました。
というのも、この「精神」と「宗教」は共に歴史に深く関わってるからです。
意識の成り立ちとこれまでの歴史をリンクさせることで学問たらせてる印象。
「精神」では、「自己疎外/Entfremdung」と「自己形成/Bildung」というテーマが重要。
自分で作り出したもの(例えば神)によって自分自身が振り回されて、にっちもさっちも行かなくなっちゃったけど(止揚/Aufheben) 、それを乗り越える方法が「教養」、さらに「啓蒙」を経て「絶対自由」に行き着く(フランス革命)。しかしこの「絶対自由」は同時にテロなどの驚異とも結びついてしまうけれど、さらにそれを乗り越える為に「道徳」があり、集団的幸福を目指す。しかしそれはあくまで綺麗事であり、結局個人の幸福を追求している「置きかえ」でしかないので、カントが「実践理性批判」で取り上げたような「道徳」は不可能。さらにその上の「良心」に行き着き、最高位の「絶対知」を得るまでの過程を「自己形成」である。ってことでいいのかしら。
「宗教」では、人々が物象的に作り上げてきたものの歴史をあげながら(神像、礼拝、悲劇、喜劇など)、暗にというか明らかに神は人間が作ったものであり、「宗教」は人間の精神が生んだ最高の発明品といったニュアンスが含まれている。ここでも歴史が語られてます。
で、最後の最後「絶対知」。クライマックスなわりにページ数が少ないのが気になりますがまとめです。
「(絶対知とは)精神の形態において自らを知る精神である、言いかえれば、概念把握する知である。」
以上、ヘーゲルさんでした。疲れた。。。
以下のサイトは特に参考になりました。
苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)
知の快楽 哲学の森に遊ぶ
カントって易しかったんやと思わされました。辛かった。
もう序文からちんぷんかんぷん。
序文読んで、初めて読みきれないかもと思わされた本です。
でも悔しいので読みます。
まあ、日本語訳が比較的易しいとされる長谷川宏訳ではなく、難解とされる樫山鉄四郎訳なので余計わけわかんないのかもしれません。
で、その序論。
全体を通してなんとなくヘーゲルがやりたいんやろうな、っていうのは、哲学をちゃんと体系化して、学問にすること。
カントのところでも書きましたが、それまで哲学というのは、数学や科学と違って抽象すぎて、説明がつかない曖昧なものという感じが当時の空気としてあったんじゃないかと。
実際、この本の最初に計画されたタイトルは「学の体系」だったそうです。
「真理が現に存在するほんとうの形態は、真理の学的体系を措いてほかにはありえない。哲学が知という形式に一層近づくために、ーつまり、愛知という名をすてることができ、現実の知であろうとする目標に一層近づくために、ー努力を人々と分とうとするのが、私の企てたことである。知が学であるという内的必然性は、知の本性のうちに在る。そしてこの点についての満足な説明は、哲学そのものの叙述以外にはない。」
「私の考えは、体系そのものが叙述されたときに初めてなるほどと是認されるようなものではあるが、この私の考えによれば、大切なことは、真理を実体としてだけでなく、主観としても理解し、表現するということである。」
その真理を編み上げるために用いられるのが弁証法という円環。
「真理とは自己自身が生成することであり、自らの終わりを自らの目的として前提し、始まりとし、それが実現され終わりに達したときに初めて現実であるような円環である。」
ヘーゲルはむしろ数学の方がいろんなことすっ飛ばしてるじゃないかと揶揄します。
「数学は、このように欠けたところのある認識の明証性を誇りとし、哲学に対し自慢している。が、この明証性は、数学の目的が貧弱であることに、その素材に欠けたところがあることに、基づいているにすぎないのであるから、哲学が軽蔑せざるをえないようなものである。ー数学の目的つまり概念は量(大いさ)である。がこれこそは非本質的な、概念のない関係である。だから知の運動は表面に起こるだけで、事態そのものには触れない、本質つまり概念には触れない、だから全く概念把握ではない。」
そんな中、彼は有名な「弁証法」という方法で、極めて理知的に哲学を学として高めていってる。
その彼の前に現れた、カント、フィヒテ、シェーゲルをベースにヘーゲル理論を築き上げていく。
なので、カント読んでないとやっぱりヘーゲルは読めないと思います。
それでも何言ってるかわからないんですが。。。
この書はヘーゲルが30代の若さで、しかも出版社との関係で急いで書き上げたという事実もあり、文章的にうまいとは到底言い難いというのもあります。
ただ、やはりこの哲学を学問にしよう、体系化しようという彼の試みが、その後の哲学の発展を押し上げた部分でもあるので、まあ重要な書であることは確かみたいです。
で、ヘーゲルがまず取り掛かったのは意識の問題です。
そこに知と真理という概念が立ち上げられます。
「意識は、あるものを自分と区別しながら、同時にこのものと関係している。このことは、あるものが意識に対して在るものの存在という側面が、知である。だが、われわれは他者に対するこの存在と自体存在とを区別する。知に関係づけられるものは、また同じように、知から区別されこの関係の外に存在するものとして、置かれる。このような自体という側面は、真理と呼ばれる。」
意識を主観とも読み替え可能だと思うけど、序論でもヘーゲルはカントの客観という概念を否定して、すべては意識(主観)次第だと説きます。
意識があるものと区別する時の存在(対他存在)を知、関係する時の存在(自体存在)を真理と規定。
とりあえず先へ。
で、じゃあ意識ってどういう発展していくのって方向へ。
まずは、人間には感覚的な意識がある。カントでいう感性や直感ですね。
「これ(知)は、対象を、対象が在るからこそ知っているが、自らは有ったり、なかったりしうるものである。だが、対象は有る、すなわち真、実在である。対象は、知られているかいないかに関係なく、現に有る。対象は、知られなくとも、そのままで(恒常的に)有る。だが知は、対象がなければない。」
なんか「在る」と「有る」が混在してるのが個人的に好きじゃないし、この訳者はその違いをどう表現してるのか全くわからなくてイライラする文章ですが、でもなんとなく重要。
先の客観はないという結論から、じゃあ、それってデカルトの唯我論への後退じゃないかという疑問が浮かんだんですが、この文章読んでると、やはり対象の存在が世界の前提になってて少し安心。
で、カントと同様時間と空間の概念が登場します。
「いまが、このいまが示される。いま、それは、示されるときには、もはや存在することを止めてしまう。現にあるいまは、示されたいまとは別のものである。いまとは、現に在るとき、すでにもはやないような、まさにそういうものであることを、われわれは知る。われわれに示されるいま、それはあったものである。これがいまの真理である。そういういまは有の真理をもっていない。それでも、いまが在ったとういうこのことは真である。だがあったものは、実際にはいかなる実在でもない。あったものは現に在るものではない。しかるに、問題になっていたのは「在る」である。」
(1)私はいまを指摘する。いまは真であると主張されている。が、私は、そのいまをあったものまたは廃棄されたものとして、示す。つまり私は初めの真理を廃棄する。
(2)私は、いまがあったということ、廃棄されていることを、いまの第二の真理として主張する。
(3)だがあったものは現にあるのではない。私はあったもの、廃棄されたもの、第二の真理を廃棄し、そうすることによって、いまの否定を否定する、こうして、いまは現にあるという最初の主張に帰る。
この議論の円環こそが、ヘーゲル的弁証法と言われるものではないかと。
空間もこの論法でやっていくんですが、要は、「いまここ」なんてのは原理的に言えないと否定した上で、「いまここ」を言えちゃう背景にこの円環があるってことかなと。
しかしこの時点では、ものが「ある」ってことしか言えない。
対象が「在った」上で、じゃあ、それが何かわからないともちろんダメ。つまり知覚するということ。
例えば塩について。
「物(塩)は、われわれの眼にふれるから白いのであり、われわれの舌にさわるから辛くもあり、われわれの触覚にふれるから立方体でもあるにすぎない。これらの側面の種々相全体を、われわれは物から受けとるのではなく、われわれから受けとる。それらは、われわれにとっては、舌とは全く別の眼にふれると、そのように、それぞれ別々に現れるのである。そこでわれわれが媒体であり、ここでは、そういう諸々の契機は分離されて、自分だけであることになる。だから、われわれは、一般媒体であるというこの規定態を、われわれの反省であると考えることによって、一であるという物の自己相当性と真理とを維持するわけである。」
知覚は、あくまでわれわれを媒体としている。
これだとまだ、ヒュームの経験論のような、あくまで経験によるもので、塩が常に白く、辛く、四角い結晶をもつことにならない。
そこで出てくるのが悟性。悟性がこれらの性質を普遍的な法則に仕上げる力を持つ。
対象は他と区別し合いながらも、互いに結びついている。
この結びつきを法則として悟性は導き出す。
この区別と統一を繰り返す法則の運動をヘーゲルは「無限性」と呼ぶ。
この「無限性」は弁証法の否定→否定の否定→統一という運動に酷似していて、非常に重要。
ただ、この無限な円環こそが、ヘーゲルの文章をよりわかりにくさせてる要因にも思える。
あれ、さっきそれ否定してなかったっけ?ってのが多々あって、迷宮状態になる。
特にこの悟性の項はその円環が激しすぎて、もう何を読んでるのかわけがわからなくなる。
なんしか、ここまでカントを明らかに下敷きにしつつも、彼の立てた限界を超克しようという意思が伝わって来る。
さらに、悟性の力の法則にまで至った意識はここから自己意識の項へ進みます。。。
この自己意識もまた読みづらいっていうか、これを理解できる人本当に尊敬です。
自己意識は欲望だってとこまではなんとなくわかったんですが、他者が出てきてから何のこと言ってるのかわからなくなってしまった。。。
他者というのは、抽象的な他者じゃなくて、本当に人と人なんですね。
人と物の関係は前項で終わってて、今回から人と人の関係における意識。それが自己意識。
自分が自分であることを他人から認められたいっていう欲望。(相互承認)
その欲望は勝ち取らなければならなくて、そのためには自分を主人、相手を僕(奴隷)にするっていう書き方なんだけど、それって尾崎豊の「僕が僕であるために」ですね。
なんしか、主になったら自由を享受できるし、僕(奴隷)になったら主に対して恐れを抱きながら、労働で持って奉仕しなきゃならない。
しかし実はこの労働によって得られる経験こそ自己意識を自分自身のものにできるステップみたいなことが書かれていて、え、じゃあ勝った方が実は負けってこと?わけわからん!ってなる。
でもまあ、他人って何人もいるから、いつまでも連戦連勝ってこともありえないし、時には負けることもあり、その負けや挫折から学ぶことの方が多いっていう人生の教訓的なもんと考えればいいのかしら。
ヘーゲルの文章は、ぐるぐる回りすぎて読んでて本当にしんどいです。。。
とにかくこの労働論が後のマルクスに影響を与える重要なキーです。
(主に対する)恐れ→奉仕→形成のプロセスの果てに自分自身を、本当の自由を獲得する。でいいかな。
この後、ストア主義やら懐疑主義やら「不幸な意識」やら色々出てくるんですがもうお手上げです。。。
飛ばして理性。
この項はあまりに広範囲に渡りすぎてて、この人マジかと思いました。
特に前半の「観察する理性」で解剖学ぐらいまではなんとなくフンフンと読んでたけど、人相学、手相学と段々怪しい雰囲気になって、骨相学にまで至ったあたりでオイオイとなりました。しかも「理性とは骨である。」とかいう言葉まで出てきてヘーゲルさん疲れちゃったのかな?と心配になりましたよ。
後半の「行為する理性」はまだ合点がいきます。
彼のすべては主観である論が追求されてる感じ。
前半でも述べてる個性とは何かっていう点を、社会(世間)の中に移行して、個人の意識と集団の意識を取り扱います。
この項あたりは、なんだかやたら人間性が強くて、「幸福」や「徳」なんて言葉がじゃんじゃん飛び出しますが、結局社会に個性を世間に示すには、「行動」「仕事」「作品」=「ことそのもの」を示すしかないということになります。当然ちゃ当然のことですが、内面をいかにアウトプットするかってことですね。
このアウトプットする行為そのものが理性が辿り着く最高の結果だと。
しかしここからまた、絶対知という、個人だけの問題ではない問題にシフトしていきます。
その最たるものが立法なんですがこの辺り中途半端に終わってる印象。
多分彼のこの後の代表作「法の哲学」に詳しいんでしょうが、もうお腹いっぱいです。
さて、下巻では「精神」「宗教」「絶対知」という章に分かれています。
しかし下巻のこの章立ては、ヘーゲルが無理矢理付け足したとか、全体の中で特に「精神」と「宗教」はどういう位置にあるのかというのが諸説様々。
まあ、あまり深く立ち入りませんが、むしろこの下巻は、ヘーゲルの「哲学を学問にする」という初心に返った感が個人的にありました。
というのも、この「精神」と「宗教」は共に歴史に深く関わってるからです。
意識の成り立ちとこれまでの歴史をリンクさせることで学問たらせてる印象。
「精神」では、「自己疎外/Entfremdung」と「自己形成/Bildung」というテーマが重要。
自分で作り出したもの(例えば神)によって自分自身が振り回されて、にっちもさっちも行かなくなっちゃったけど(止揚/Aufheben) 、それを乗り越える方法が「教養」、さらに「啓蒙」を経て「絶対自由」に行き着く(フランス革命)。しかしこの「絶対自由」は同時にテロなどの驚異とも結びついてしまうけれど、さらにそれを乗り越える為に「道徳」があり、集団的幸福を目指す。しかしそれはあくまで綺麗事であり、結局個人の幸福を追求している「置きかえ」でしかないので、カントが「実践理性批判」で取り上げたような「道徳」は不可能。さらにその上の「良心」に行き着き、最高位の「絶対知」を得るまでの過程を「自己形成」である。ってことでいいのかしら。
「宗教」では、人々が物象的に作り上げてきたものの歴史をあげながら(神像、礼拝、悲劇、喜劇など)、暗にというか明らかに神は人間が作ったものであり、「宗教」は人間の精神が生んだ最高の発明品といったニュアンスが含まれている。ここでも歴史が語られてます。
で、最後の最後「絶対知」。クライマックスなわりにページ数が少ないのが気になりますがまとめです。
「(絶対知とは)精神の形態において自らを知る精神である、言いかえれば、概念把握する知である。」
以上、ヘーゲルさんでした。疲れた。。。
以下のサイトは特に参考になりました。
苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)
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