「ツァラトゥストラはこう言った」by フリードリヒ・ニーチェ

ニーチェの最も有名な著。
物語調で読みやすいです。内容は激烈ですが(笑)
ってことで例によって読みたい人だけどうぞ。

ところで、美術畑の人には「失読症」の人が多いです。
どうしてもイメージで物事をとらえちゃうので、読みながらイメージが暴走して文章が読めなくなる。
トム・クルーズもそうらしく、台本はお姉さんに音読してもらって覚えるとか。。。
実際ロンドンの大学行ってる時クラスの半分が失読症と判断されてました。多すぎやろ!
彼らはレポートの提出を遅くしてもらったり文字数削ってもらったりなどの措置があって、何人かはインチキなんじゃないかとは思うものの、とにかく多いんです。
日本ではあまりなじみないですが、実は多いと思います。
僕はどうなのかわかりませんが、やはり具体的な物語の方が読みやすい。
哲学の苦手な部分はあまりに抽象的すぎてイメージがつかめないということです。
なので、このツァラトゥストラは誰にでも読みやすく物語風になっています。それだけニーチェが多くの人に伝えたかったということなのでしょう。

4部に分かれていて、1部で山にこもっていたツァラトゥストラが山を降りて自分の悟りを教えに行き、2部で再び山に籠ったツァラトゥストラが下山し弟子たちに新たに教えを説くがおのれをさらに成熟させるためにまたも山へ戻る。3部では山へ戻る道中から始まり山へ至る。4部では多くの歳月が流れ、ツァトゥストラも年を取り、洞穴の中で動物たちとおしゃべりして過ごす。しかし人間の叫び声を聞き、3度下山する道中で出会った「ましな人間」たちを洞窟に招き饗宴を開き、最後はまた洞穴を去る。

と、改めてストーリーラインだけ書くと曖昧な部分が多くてちょっとテキトー。
物語調とは言え、やはりメインは、ツァラトゥストラが説いた思想です。
大きく、1部2部では超人について、3部4部には永遠回帰について。
時に聖書のように、時にギリシャの対話篇のように書かれた文体は非常にユニーク。
ほとんどの章の締めを「ツァラトゥストラはこう言った」でくくってるのもいいですね。
時には詩のようにうっとりするような文章もあり、やはりうまいなと思います。
「神は死んだ」というツァラトゥストラ(ニーチェ)の確信とともに始まるこの本は、やはり聖書へのカウンターという意味合いが強いのでしょう。ここでいう「神」とはキリスト教の神のことです。個人でこんな大きなものにカウンター食らわそうというのだからニーチェという人は凄まじい人です。
以下色々抜粋。

「わたしはあなたがたに超人を教えよう。人間は克服されなければならない或物なのだ。あなたがたは人間を克服するために、何をしたというのか?」(「超人と『おしまいの人間』たち」より)

「かつては神を冒涜することが、最大の冒涜であった。しかし、神は死んだ。したがってこれらの神の冒涜者たちもなくなった。いまや最も恐るべきことは、大地を冒涜することだ。究めることのできない者を設定し、そのえたいの知れぬ臓腑を、大地の意義以上に高く崇めることだ。」(「超人と『おしまいの人間』たち」より)

「まことに、人間は汚れた流れである。汚れた流れを受け入れて、しかも不潔にならないためには、われわれは大海にならなければならない。見よ、わたしはあなたがたに超人を教えよう。超人は大海である。あなたがたの大いなる軽蔑は、この大海のなかに没することができる。あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか?それは『大いなる軽蔑』の時である。あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。」(「超人と『おしまいの人間』たち」より)

しょっぱなから強烈。
以降「あなたがこう言う時である。」とひたすら続きます。ここは最初の大波です。
以下また抜粋。

「人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛されるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである。」(「超人と『おしまいの人間』たち」より)

また「わたしが愛するのは」と続きますが、究極にニヒリズムです。
最後の文章がまた美しい。

「わたしが愛するのは、人間たちのうえにかかっている暗雲から、一しずくずつ落ちてくる重い雨滴のような人々である。かれらは稲妻がくることを告知し、告知者として破壊するのである。見よ、わたしは稲妻の告知者であり、雲から落ちる重い雨滴である。そして、この稲妻の名こそ超人なのだ。」(「超人と『おしまいの人間』たち」より)

そして神の否定。

「ああ、わが兄弟たちよ、わたしがつくったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。すべての神々がそうであったように!その神は人間であった。しかもたんなる人間と自我の貧弱なひとかけらであった。私自身の灰と火影から、それは出てきたのだ。この幽霊は。まことに!それは彼岸から来たのではなかった!」(「世界の背後を説く者」より)

神を幽霊呼ばわりです。さらに隣人愛否定。

「あなたがたの隣人への愛は、あなたがた自身への愛がうまく行かないからだ。あなたがたはあなたがた自身から逃げだして、隣人のところへ行くのであり、それを美徳にしたいと思うのだ。(中略)あなたがたは、あなたがた自身にがまんができないし、また、自身を十分に愛してもいない。そこであなたがたは隣人を愛へと誘惑し、隣人の錯誤によって自分自身にメッキをかけようとするのだ。」(「隣人への愛」より)

これはすごい指摘ですね。読みながらグサグサくる一説。
そして次の章「創造者の道」は個人的に第一部の白眉だと思う。
最後の文章がまた美しい。

「あなたの愛をたずさえ、あなたの創造をたずさえて、あなたの孤独のなかへ行きなさい。わが兄弟よ。そうすればのちになって、公正がびっこをひいてあなたのあとを追ってくるだろう。わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独の中に行きなさい。わが兄弟よ。わたしが愛するのは、自分自身を越えて創造しようとし、そのために破滅する者だ。」(「創造者の道」より)

第二部でも神の否定は絶好調です。

「神はひとつの推測である。(中略)神とは、一切のまっすぐなものを曲げ、一切の立っているものを回転させる思考である。なんということだろう?時がいつかなくなるのだって?一切の移ろいゆくものは、虚偽にすぎないのだって?(中略)一なる者、全なる者、不動なる者、充足せる者、不滅なる者というようなことを言う、一切のこうした教えを、わたしは悪と呼び、人間憎悪と呼ぶ!」(「至福の島々で」より)

「聖職者というものを、わたしはいたましく思う。(中略)かれらは捕われ人であり、烙印を押された者である。かれらに首かせをはめた者は誰か?それはかれらによって救世主と呼ばれた者だ。それはいつわりの価値と虚妄のことばの首かせだ!ああ、誰がかれらを、その救世主から、さらに救済してやれるだろうか!かれらは海に漂っていた。そして、やっとひとつの島に上陸できたと信じた。しかし、どうだろう、その島は眠っている怪物であった!」(「聖職者たち」より)

「おお、これらの聖職者たちが建てた小屋を見るがいい!この甘いにおいのする洞穴を。教会、とかれらはそれを呼んでいる!おお、このまやかしの光、このうっとうしい空気!」(「聖職者たち」より)

「かれらは、おのれにさからい、おのれに苦痛を与えるものを、神と呼んだ。たしかに、かれらの信仰のなかには、英雄的ともいえるものが、たぶんにあった!だが、かれらの神を愛する仕方は、人間を十字架にかけることでしかなかった!かれらは屍として生きようと思った。かれらは自分の屍を黒衣でおおった。かれらの説教からも、わたしは死体置場のいやな臭いをかぐ。」(「聖職者たち」より)

「これら救済者たちの精神は、隙間だらけであった。この隙間の一つ一つに、かれらは自己の妄想を詰めた。この詰め物を、かれらは神と呼んだ。かれらの同情のなかで、かれらの精神は溺死した。満々とみなぎった同情の水面に浮き上がってくるのは、いつも大いなる愚劣であった。」(「聖職者たち」より)

この「聖職者たち」の章は特にキリスト教批判が激しい部分ですね。
そして同一人物が書いたのかと思われる「夜の歌」という章があって、全体がものすごく詩的で美しい文章なののでオススメ。激烈なツァラトゥストラの物語の中で、数少ない休息ポイントです。
しかし、なぜかこの後詩人批判も展開します笑 忙しい本です。

「わたしは詩人たちに飽きた。古い詩人に飽き、新しい詩人に飽きた。かれらはみな表面にすぎない。浅い海にすぎない。(中略)かれらは海からその虚栄心を学んだ。海、それは孔雀のなかの孔雀ではないのか?海は、最も醜悪な水牛にも、その尾をひろげて見せる。海は、銀と絹の透かし扇を、渚にひろげて、倦きるを知らない。水牛はこれを傲然と眺めている。かれらの心は砂にある。さらに草むらにある。最も多く沼にある。この水牛にとっては、美も、海も、孔雀のよそおいも何であろう!この比喩を、わたしは詩人に与える。まことに詩人は精神の奥底まで、孔雀のなかの孔雀だ。虚栄の海だ!詩人の精神は見物が欲しいのだ。水牛でもいいから欲しいのだ!こうした精神に、わたしは飽きた。わたしは見る。こうした精神が自分自身に飽き飽きしてくるのを。」(「詩人」より)

って十分詩的なんですが。。。
ここまでが2部。超人思想とキリスト教批判が核になるのかな。批判がとにかく強烈。
3部からは少しは批判の鞭も緩くなって、世界の真理を説く場面が多くなる。

「世界は、時間を惜しまない者には、測定することができる。すぐれた秤り手がいれば、秤ることができる。強力な翼があれば、飛んでいって、これを究めることができる。すばらしいくるみ割りがあれば、これを割って、謎を解くことができる。そうしたものとして、わたしの夢はけさ、世界を見たのだ。」(「三つの悪」より)

「いつか人間に飛ぶことを教える者がくる。そのときはすべての境界石がうごく、かれによって、すべての境界石は宙に浮き、意味を失うだろう。かれは重たい大地を、あらためてー『軽いもの』と呼ぶだろう。(中略)人間にとっては大地も人生も重いものなのだ。それは重力の魔のしわざである!しかし軽くなり、鳥になりたいと思う者は、おのれ自身を愛さなければならない、ーこれがわたしの教えである。」(「重力の魔」より)

「わたしもまた待つことを学んだ。それも心底から学んだ。ーだが、それはひとえにわたしを待つことであった。そしてまず、立ち、歩き、走り、よじ登り、踊るということを学んだ。というのは、これがわたしの教えなのだ。いつか空を飛ぼうとする者は、まず、立ち、歩き、走り、よじ登り、踊ることを学ばなければならない。ーいきなり飛んでも飛べるものではない!」(「重力の魔」より)

「あなたの隣人のなかにも住むあなた自身を克服しなさい。そして、あなたが奪い取るべき権利を、ひとの手から与えられてはならない!あなたがしたと同じことを、だれもあなたに二度とすることはできない。それだけでも因果応報などということはありえない。自分自身に命令することのできない者は、ひとに服従することになる。自分自身に命令できる者は少ないが、かれらも自分自身に服従するまでにはなかなかなれない!」(「古い石の板と新しい石の板」より)

なんだか自己啓発本みたいですが、いかにおのれに向き合うかが重要なんですね。
そしていよいよツァラトゥストラ後半の核である「永遠回帰」が出てきますが、最初にこの思想が語られるのは、ツァラトゥストラの口からではなく、鷲と蛇の口からなんですね。おいおい。ということで以下は鷲と蛇の言葉。

「一切は行き、一切は帰ってくる。存在の車輪は永遠にめぐる。一切は死に、一切はふたたび花ひらく。存在の年は永遠にめぐる。一切は破れ、一切は新たにつぎあわされる。存在の同じ家が、永遠に建てられる。一切は別れ、一切はふたたび挨拶しあう。存在の環は、永遠におのれに忠実である。おのおのの瞬間に存在ははじまり、おのおのの『ここ』のまわりに『かなた』の球が回転する。中心はいたるところにある。永遠の道は曲線である。」(「快癒に向かう者」より)

「あなたは永遠回帰の教師なのだ。(中略)ああ、わたしたちはあなたの教えることを知っている。それは、一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたしたちはすでに無限の回数にわたって存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。」(「快癒に向かう者」より)

とまあこんな感じなんですが、全編通じて語られるこうした「超人」や「永遠回帰」という考え方。これって東洋思想にとってはすでに十分馴染み深い思想ですよね?
仏教なんかだと、生きたまま仏になれる人、すなわち人間を克服する「超人」思想は当然のものだし、死んだら「仏さん」と呼ばれるように全員が仏(=超人)になっちゃう。
また、永遠回帰はいうまでもなく輪廻転生です。キリスト教の国、すなわちヨーロッパにいるといつも思うのが、永遠=不変という考え方があまりにも根強いということです。例えば僕ら日本人にとって、災害があまりに多いということもあって、不変という考え方は基本的に不可能。その代わり、形を変えながらも「永遠」を作っていくあの粘り強さは独特だと思います。伊勢神宮とか端から見たら狂気の沙汰です。でもそれが僕らの「永遠」。移ろいながら続いていく。すなわち永遠回帰です。
そもそも、このツァラトゥストラというのはドイツ語のゾロアスターのことで、彼の説いてる思想はゾロアスターの思想と完全に一致するわけではないけれど、やはりこの中東で生まれた東洋思想に根付いてるわけですね。
だから、正直東洋人が読んでもふーんってなるだけかもしれません。
しかし、当時のドイツからして、キリスト教は宗教改革以来以前ほど強い信仰を集めていなかったとはいえ、ここまでコテンパンに否定するなんてのは革新的だったと思います。
ニーチェは人生の後半で狂ってしまいますが、この荒々しい思想をうちに秘めてしまった宿命だったのかもしれません。

ここからもう少しニーチェ続きます。文章が美しいので好きです。
あと、岩波のこの「ツァラトゥストラ」は文章の流れを大切にしてくれていて、注釈が一切ありません。
ドイツ語との通訳ぐらい最後につけてくれてもよかったとは思いますが、個人的には好きです。
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