「純粋理性批判」by イマニュエル・カント
新年一発目からカントって何事?何のブログ?って自分でも思いますがカントです。
「Book」というカテゴリーがあったことを自分でも忘れてましたが、久々に投稿。
あくまで僕の理解のためのメモです。詳しい人は読まなくていいです。誤解も多々あるかと。
ってことで興味ある人だけどうぞ。(とりとめもなく長くなってしまった)
「Book」というカテゴリーがあったことを自分でも忘れてましたが、久々に投稿。
あくまで僕の理解のためのメモです。詳しい人は読まなくていいです。誤解も多々あるかと。
ってことで興味ある人だけどうぞ。(とりとめもなく長くなってしまった)
どうせ読んでもわからねーやってことで逃げ続けてきた哲学を、スイス来て時間がたっぷりあるので向き合ってみようということで何冊か持ってきたんです。
哲学はあらゆる学問(芸術も含む)の始原なので、どうせ避けられない道なんですよね。
最初の1ヶ月ぐらい何も手付かずでしたが、11月終わりぐらいから手をつけ始めました。
特に今いるスイスのブリークがドイツ語圏なので、ドイツ語の勉強にもなるかと思ってドイツ哲学を中心に持ってきました。
ということでまずはカント。いきなり超難解です。
どれぐらい難解かというと、「純粋理性批判」出版当時(1781年)誰も理解できないとクレームが相次ぎ、仕方なく「プロレゴメナ」という要約書をカント自身が書かなければならなかったほど。それでも理解できないとクレームが来てついにカントは理解されるのを諦めたほど笑
その前にドイツ哲学はライプニッツ等がいますが、彼に至っては、当時ドイツ国民の学力はヨーロッパの中でも特に低かったため、そもそも読もうと思う人すらいなかったほど。そういう意味ではまだ読者のあったカントは恵まれてます。
ところで、ギリシャ以降カント以前の哲学はキリスト教の影響が強すぎて、結局全部神のせいにしちゃうので読んでて虚しくなるんですよね。そもそも自分キリスト教徒でもないし余計感情移入できない。スピノザとか全然読めない。
そもそもヨーロッパにおいて、16世紀にルターを始めとする宗教改革が成されるまで、あらゆる物事は教会が決めていたので、科学も哲学も芸術も、本当に狭い枠内でしか活動できませんでした。その意味で宗教改革は、あらゆる分野における文明開化だったわけです。ギリシャ以降偉大な哲学者が現れてないのはこのせいもあるでしょう。神の意志以外のことを言ったら罰せられる世界ですから。実際ガリレオは地動説を唱えたことで裁判にまでかけられてますね。この辺の歴史はフーコーの「言葉と物」を読めばある程度理解できるかと。(本自体は難解)
ライプニッツもスピノザも宗教改革以降の人ですが、それでもキリスト教の匂いが強い。
さらにそれ以前は神がいるだのいないだの、我々の認識の範囲を超えた形而上学や、キリスト教の教えを基礎にしてしか通じないようなスコラ哲学(scola=学校)が幅を効かせてました。
その点カントは、哲学の「コペルニクス的転回」と言われるように、神から哲学をかなりいい線まで切り離した哲学者なので、まだ読めます。とはいえ神と完全に切れるにはニーチェを待たなくてはなりませんが。
で、先日ようやく三批判(「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」)と「永遠平和のために」を読了。ものすごく疲れた。
まずのっけからいちゃもんですが、そもそも「批判」って訳はどうなのって思いました。
原題が「Kritik der reinen Vernunft」で、Kritikって英語で言うCritique、批評ではないのか?
批判っていうと、どうしても否定的なニュアンスがありますよね。
読んでても全く理性を「批判」してない。最初に訳した人が批判って訳しちゃって今更後戻りできない感がありますね。
現在新たな訳が光文社古典新訳文庫から出てますが、どうせだったらタイトルも変えちゃえばいいのにと個人的には思います。
ちなみに僕は最も読みにくいとされる岩波文庫版で読みました。辛かった。。。
機会があれば、光文社版でも読みたいけど、新訳になると7冊にもなるのね。これはこれで辛い。岩波版は上中下の三冊です。
「批判」といえば、それ以前の経験論と合理論を批判してます。形而上学に至っては序論で全否定です。批判するまでもないと。その辺カントの凄みがあります。
カントの前にヒュームという人がいますが、彼は経験論で知られるイギリスの哲学者。
ヒュームは、結局人間は経験を通してでしか物事を追求できないので、100%確実なことは何も言えないといった理論。例えば「すべてのカラスは黒い」と言っても、地球上すべてのカラスを見たわけじゃないからそんなことは蓋然的(凡そはそう)にしか言えないってこと。つまり人間は主観的なことしか言えない。客観なんてありえない、となります。
そこでカントは、おいおいそんなことねーだろ!っていうヒューム(経験論)「批判」をしたわけですね。
経験論でいくと、自分の歩いてる大地が一歩先で崩れるかもしれないし、そうなったら歩けなくなるように、なんにもできなくなっちゃう。
それに対して合理論は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉で知られるように、かなり大雑把な理論。この理論でいくと、オレ黒いカラスしか見たことないからカラスは全部黒でいいじゃんになるし、神様だって自分がいるって信じちゃえばいるでいいじゃんになる。
カントはそれに対しても待ったをかけるわけですね。確かに経験的(ア・ポステリオリ)ではなく先天的(ア・プリオリ)に「わかる」部分も人間にはあるけど(数学の定理とか)、でも神とか不死の存在もそれで片付けるのは乱暴だと。
で、まず経験論を批判するために、人間の先天的(ア・プリオリ)に備わってるものの説明から。
それが、大きく感性(Sinnlichkeit/sensibility)、悟性(Verstand/understanding)、理性(Vernunft/reason)だと。(光文社版では悟性を知性と訳してるそうですが、とりあえず岩波で読んだので岩波に従います)
まず「感性」。ものを認識する能力。
これ以上解体できない、「ある」としか言いようのないもの、先天的(ア・プリオリ)に「ある」ものとして捉えるしかないものとして、カントは空間と時間を挙げます。(ここで引っかかる人も多い)
で、そうであるとして、まず直感がこの空間と時間を捉えます。
その直感を元にして、構想力がそのデータを束ねて感性はものを認識する。
ただし、人はこの空間と時間の形式の中でしかものを捉えられないので、「物自体(Ding an sich/thing-in-itself)」を認識することはできない。
人はその表象にある「現象(Erscheinung/phenomenon)」しか認識できない。
(ちなみにこの「物自体」をフェノメノンと対するためなのかヌーメノンとも言ってます。多分同じこと)
人間は、五感で捉えたその現象を元に世界を仮想的に構築するしかないと説きます。
この辺りですでに、「我思う、ゆえに我あり」は否定されてます。
さらにこの話はフッサールあたりの現象学につながっていくんでしょうか。
で、次に「悟性」です。
悟性は、感性で得られた情報をさらに整理しまとめる役割。認識したものを「わかる」能力ってことですね。
で、その悟性にはカテゴリーという引き出しがあって、それにデータを振り分けて整理すると。
カテゴリーには「質」「量」「関係」「様相」の4つあると。
もうこの辺でわけわかんないですが、とりあえずこの4つに振り分けて人は初めてそれが何であるのかが「わかる」のだと。
ここがカントの真骨頂であり、「コペルニクス的転回」と言われてる所以です。
つまり、それまでは、世界は神から与えられたもので、見聞きしたものは見聞きしたまま受動的に受け取ることが真理でした。
しかしカント曰くそうではなく、見聞きできるものは、ただの「現象」でしかなくて、「物自体」ではないので、人間が感性と悟性によって能動的に作ってる仮象であると。見えてるものは全くもって真理ではないと。
世界が神から人間に渡った瞬間と言えましょう。
さらに言えば、その百年以上後(1934年)にユクスキュルが証明した「環世界」の理論に先行していて驚きます。
そこでさらにその経験的なデータを基にしつつも、それを超える超越論的(tranzcendental/transcendental)理念を作り出し、推理するのが3つ目の「理性」だと。(この「超越論的」という訳は、岩波では「先験的」と訳されてますが、現在ではその訳はマズイというのが大方の意見みたいなのでここは「超越論的」に従います。)
これこそが、ヒュームの経験論を批判する最大の武器なんですが、悟性あたりからなんのこっちゃな自分にはさらになんのこっちゃです。
た、多分、誤解を相当恐れながら言うけれど、悟性までは認識する能力でしかないけれど、人間は「考える葦」だから、その「考える」能力こそ「理性」であって、考えるためには認識を超えなければならないってこと、かな。違うか。
そこで分析的判断と総合的判断というものが出てくる。
分析的判断とは「AはAである」というストレートでア・プリオリな判断。
総合的判断とは、例えば「私は日本人である」といった、経験的/ア・ポステリオリにしか導かれない判断。
しかし、例えば算数の「1+1=2」というのは、カントによれば総合的な判断だけれど、でも「1+1=5」になりえないからア・プリオリとも言える。(この辺苦しい)
この「ア・プリオリな総合的判断」こそ理性をもって証明できる理念であると。
ただし、この理性には限界があって、やはり感性・悟性を通さないものを考えることはできない。
ゆえに神や不死を証明することはできないと。
それでも理性はたまに暴走しちゃって、ありもしない主観的な思い込みを客観的な事実と誤認しちゃうこともあると。
その誤認の代表が形而上学でおなじみの(1)実体としての心、(2)宇宙の全体性、(3)神の存在証明。
(1)に関しては、デカルトなんかが心を実体として捉えることによってあの有名な「コギト」の考えが生まれ、さらにそれが「魂の不死」などの思想に陥っていく。
そもそも心と体を分けちゃってるのが「誤謬推論」だと断罪する。
心は意識の流れであり実体ではないと。
(2)に関しては、有名なアンチノミー(二律背反)を使って説明する。
ここで4つの命題、すなわち、「世界の空間的・時間的始まりについて」、「世界の最小単位について」、「自由について」「神について」を提出し、どれも肯定もできるし否定もできちゃうってことを証明する。矛と盾ですね。このアンチノミーが宇宙の全体を問う時に生じると。
最後に(3)。それまで神の実在を人類はあらゆる方法で説いてきました。その代表が存在論的証明、宇宙論的証明、自然神学的証明の3つ。詳しい内容は省きますが、この3つをバッタバッタと否定していくことで、カントは最終的に、神の存在証明とは、理性の理想であって、決して存在証明なんてできるわけないと説くわけです。ただ、あくまで神の存在は否定しません。神の存在を証明することの可能性を否定しているのです。
こうして理性の限界を見せつけることで、形而上学や、合理論をカントは批判しました。
このあたりもまた、100年以上後にウィトゲンシュタインが言った「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉を連想させますね。
ってことでここまでが「純粋理性批判」なんだけど合ってるかほとんど自信なし。限界。
まあ、気にせず次の「実践理性批判」「判断力批判」に向かうのだけれど、正直三批判を読み進むにつれて、どんどん辛くなっていくというか、カントのドンキホーテ感が強まってしまって、「判断力批判」に至っては苦笑いを禁じ得ないです。
「実践理性批判」に関しては、心を清らかにして読めばすごく清々しい本です。
「神の存在証明」をバッサリと「純粋理性批判」の最後で斬ったカントですが、この本ではものすごく神の存在が濃厚になります。え、同じ作者?って思うほどに。
人間の行動は、理性の道徳的判断によって決められていて、この道徳的判断は最高善(das höchste Gute)に基づいていると。
この道徳的な部分は人間すべてに備わったア・プリオリなものだというわけですが、いわゆる性善説と言ってもいいかも。
さらにこの最高善を目指すこと自体が幸福に結びつくとのことです。
「道徳論は、我々はどうすれば自分を幸福にするかということについての教えではなくて、どうすれば幸福を受けるに価するようになるべきであるかということについての教えである。」
ここでいう幸福とは、個人的な幸福のことではないのです。個人的な幸福による行動は格律(ポリシー/主観に基づくもの)に従うが、それが理性からの命令ではないと。
「道徳的法則の要求するのは、義務に基づく遵法であって、各自の主観的な好みにもとづく遵法ではない。我々はそのような個人的愛好を前提し得るものではなく、また前提すべきではない。」
まあ、こんな風に「きれいごと」とも取れる内容が多々あるんですが、個人的には三批判の中でもっともわかりやすくて好きな本です。自己啓発本としても役に立つかもしれません笑
最後に「判断力批判」ですが、ごめんなさい、これ無理です。
この本には美学なんかの、趣味ともいえる内容が含まれていて、これらの判断に関してもア・プリオリな原理があるはずだと書いてるわけですが、完全にドンキホーテだと思いました。これはさすがに経験的にしか捉えられないでしょ。
下巻では自然に関する判断も載ってましたが、全然入ってこず。
美的判断の最後の方でいきなり音楽をdisり始めたのは笑いました。
あと「永遠平和のために」は時代的なものもあって、アクチュアルではないですが、常備軍の全廃を唱えたり、日本の鎖国は正しかったみたいな文章もあったり、短いながら読ませるところもあります。
ということで以上カントさんでした。疲れた。
以下のサイトを参考にしました。
詳細解読コーナー
村のホームページ
知の快楽
あとヤフー知恵袋とかも参考になりました。
哲学はあらゆる学問(芸術も含む)の始原なので、どうせ避けられない道なんですよね。
最初の1ヶ月ぐらい何も手付かずでしたが、11月終わりぐらいから手をつけ始めました。
特に今いるスイスのブリークがドイツ語圏なので、ドイツ語の勉強にもなるかと思ってドイツ哲学を中心に持ってきました。
ということでまずはカント。いきなり超難解です。
どれぐらい難解かというと、「純粋理性批判」出版当時(1781年)誰も理解できないとクレームが相次ぎ、仕方なく「プロレゴメナ」という要約書をカント自身が書かなければならなかったほど。それでも理解できないとクレームが来てついにカントは理解されるのを諦めたほど笑
その前にドイツ哲学はライプニッツ等がいますが、彼に至っては、当時ドイツ国民の学力はヨーロッパの中でも特に低かったため、そもそも読もうと思う人すらいなかったほど。そういう意味ではまだ読者のあったカントは恵まれてます。
ところで、ギリシャ以降カント以前の哲学はキリスト教の影響が強すぎて、結局全部神のせいにしちゃうので読んでて虚しくなるんですよね。そもそも自分キリスト教徒でもないし余計感情移入できない。スピノザとか全然読めない。
そもそもヨーロッパにおいて、16世紀にルターを始めとする宗教改革が成されるまで、あらゆる物事は教会が決めていたので、科学も哲学も芸術も、本当に狭い枠内でしか活動できませんでした。その意味で宗教改革は、あらゆる分野における文明開化だったわけです。ギリシャ以降偉大な哲学者が現れてないのはこのせいもあるでしょう。神の意志以外のことを言ったら罰せられる世界ですから。実際ガリレオは地動説を唱えたことで裁判にまでかけられてますね。この辺の歴史はフーコーの「言葉と物」を読めばある程度理解できるかと。(本自体は難解)
ライプニッツもスピノザも宗教改革以降の人ですが、それでもキリスト教の匂いが強い。
さらにそれ以前は神がいるだのいないだの、我々の認識の範囲を超えた形而上学や、キリスト教の教えを基礎にしてしか通じないようなスコラ哲学(scola=学校)が幅を効かせてました。
その点カントは、哲学の「コペルニクス的転回」と言われるように、神から哲学をかなりいい線まで切り離した哲学者なので、まだ読めます。とはいえ神と完全に切れるにはニーチェを待たなくてはなりませんが。
で、先日ようやく三批判(「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」)と「永遠平和のために」を読了。ものすごく疲れた。
まずのっけからいちゃもんですが、そもそも「批判」って訳はどうなのって思いました。
原題が「Kritik der reinen Vernunft」で、Kritikって英語で言うCritique、批評ではないのか?
批判っていうと、どうしても否定的なニュアンスがありますよね。
読んでても全く理性を「批判」してない。最初に訳した人が批判って訳しちゃって今更後戻りできない感がありますね。
現在新たな訳が光文社古典新訳文庫から出てますが、どうせだったらタイトルも変えちゃえばいいのにと個人的には思います。
ちなみに僕は最も読みにくいとされる岩波文庫版で読みました。辛かった。。。
機会があれば、光文社版でも読みたいけど、新訳になると7冊にもなるのね。これはこれで辛い。岩波版は上中下の三冊です。
「批判」といえば、それ以前の経験論と合理論を批判してます。形而上学に至っては序論で全否定です。批判するまでもないと。その辺カントの凄みがあります。
カントの前にヒュームという人がいますが、彼は経験論で知られるイギリスの哲学者。
ヒュームは、結局人間は経験を通してでしか物事を追求できないので、100%確実なことは何も言えないといった理論。例えば「すべてのカラスは黒い」と言っても、地球上すべてのカラスを見たわけじゃないからそんなことは蓋然的(凡そはそう)にしか言えないってこと。つまり人間は主観的なことしか言えない。客観なんてありえない、となります。
そこでカントは、おいおいそんなことねーだろ!っていうヒューム(経験論)「批判」をしたわけですね。
経験論でいくと、自分の歩いてる大地が一歩先で崩れるかもしれないし、そうなったら歩けなくなるように、なんにもできなくなっちゃう。
それに対して合理論は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉で知られるように、かなり大雑把な理論。この理論でいくと、オレ黒いカラスしか見たことないからカラスは全部黒でいいじゃんになるし、神様だって自分がいるって信じちゃえばいるでいいじゃんになる。
カントはそれに対しても待ったをかけるわけですね。確かに経験的(ア・ポステリオリ)ではなく先天的(ア・プリオリ)に「わかる」部分も人間にはあるけど(数学の定理とか)、でも神とか不死の存在もそれで片付けるのは乱暴だと。
で、まず経験論を批判するために、人間の先天的(ア・プリオリ)に備わってるものの説明から。
それが、大きく感性(Sinnlichkeit/sensibility)、悟性(Verstand/understanding)、理性(Vernunft/reason)だと。(光文社版では悟性を知性と訳してるそうですが、とりあえず岩波で読んだので岩波に従います)
まず「感性」。ものを認識する能力。
これ以上解体できない、「ある」としか言いようのないもの、先天的(ア・プリオリ)に「ある」ものとして捉えるしかないものとして、カントは空間と時間を挙げます。(ここで引っかかる人も多い)
で、そうであるとして、まず直感がこの空間と時間を捉えます。
その直感を元にして、構想力がそのデータを束ねて感性はものを認識する。
ただし、人はこの空間と時間の形式の中でしかものを捉えられないので、「物自体(Ding an sich/thing-in-itself)」を認識することはできない。
人はその表象にある「現象(Erscheinung/phenomenon)」しか認識できない。
(ちなみにこの「物自体」をフェノメノンと対するためなのかヌーメノンとも言ってます。多分同じこと)
人間は、五感で捉えたその現象を元に世界を仮想的に構築するしかないと説きます。
この辺りですでに、「我思う、ゆえに我あり」は否定されてます。
さらにこの話はフッサールあたりの現象学につながっていくんでしょうか。
で、次に「悟性」です。
悟性は、感性で得られた情報をさらに整理しまとめる役割。認識したものを「わかる」能力ってことですね。
で、その悟性にはカテゴリーという引き出しがあって、それにデータを振り分けて整理すると。
カテゴリーには「質」「量」「関係」「様相」の4つあると。
もうこの辺でわけわかんないですが、とりあえずこの4つに振り分けて人は初めてそれが何であるのかが「わかる」のだと。
ここがカントの真骨頂であり、「コペルニクス的転回」と言われてる所以です。
つまり、それまでは、世界は神から与えられたもので、見聞きしたものは見聞きしたまま受動的に受け取ることが真理でした。
しかしカント曰くそうではなく、見聞きできるものは、ただの「現象」でしかなくて、「物自体」ではないので、人間が感性と悟性によって能動的に作ってる仮象であると。見えてるものは全くもって真理ではないと。
世界が神から人間に渡った瞬間と言えましょう。
さらに言えば、その百年以上後(1934年)にユクスキュルが証明した「環世界」の理論に先行していて驚きます。
そこでさらにその経験的なデータを基にしつつも、それを超える超越論的(tranzcendental/transcendental)理念を作り出し、推理するのが3つ目の「理性」だと。(この「超越論的」という訳は、岩波では「先験的」と訳されてますが、現在ではその訳はマズイというのが大方の意見みたいなのでここは「超越論的」に従います。)
これこそが、ヒュームの経験論を批判する最大の武器なんですが、悟性あたりからなんのこっちゃな自分にはさらになんのこっちゃです。
た、多分、誤解を相当恐れながら言うけれど、悟性までは認識する能力でしかないけれど、人間は「考える葦」だから、その「考える」能力こそ「理性」であって、考えるためには認識を超えなければならないってこと、かな。違うか。
そこで分析的判断と総合的判断というものが出てくる。
分析的判断とは「AはAである」というストレートでア・プリオリな判断。
総合的判断とは、例えば「私は日本人である」といった、経験的/ア・ポステリオリにしか導かれない判断。
しかし、例えば算数の「1+1=2」というのは、カントによれば総合的な判断だけれど、でも「1+1=5」になりえないからア・プリオリとも言える。(この辺苦しい)
この「ア・プリオリな総合的判断」こそ理性をもって証明できる理念であると。
ただし、この理性には限界があって、やはり感性・悟性を通さないものを考えることはできない。
ゆえに神や不死を証明することはできないと。
それでも理性はたまに暴走しちゃって、ありもしない主観的な思い込みを客観的な事実と誤認しちゃうこともあると。
その誤認の代表が形而上学でおなじみの(1)実体としての心、(2)宇宙の全体性、(3)神の存在証明。
(1)に関しては、デカルトなんかが心を実体として捉えることによってあの有名な「コギト」の考えが生まれ、さらにそれが「魂の不死」などの思想に陥っていく。
そもそも心と体を分けちゃってるのが「誤謬推論」だと断罪する。
心は意識の流れであり実体ではないと。
(2)に関しては、有名なアンチノミー(二律背反)を使って説明する。
ここで4つの命題、すなわち、「世界の空間的・時間的始まりについて」、「世界の最小単位について」、「自由について」「神について」を提出し、どれも肯定もできるし否定もできちゃうってことを証明する。矛と盾ですね。このアンチノミーが宇宙の全体を問う時に生じると。
最後に(3)。それまで神の実在を人類はあらゆる方法で説いてきました。その代表が存在論的証明、宇宙論的証明、自然神学的証明の3つ。詳しい内容は省きますが、この3つをバッタバッタと否定していくことで、カントは最終的に、神の存在証明とは、理性の理想であって、決して存在証明なんてできるわけないと説くわけです。ただ、あくまで神の存在は否定しません。神の存在を証明することの可能性を否定しているのです。
こうして理性の限界を見せつけることで、形而上学や、合理論をカントは批判しました。
このあたりもまた、100年以上後にウィトゲンシュタインが言った「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉を連想させますね。
ってことでここまでが「純粋理性批判」なんだけど合ってるかほとんど自信なし。限界。
まあ、気にせず次の「実践理性批判」「判断力批判」に向かうのだけれど、正直三批判を読み進むにつれて、どんどん辛くなっていくというか、カントのドンキホーテ感が強まってしまって、「判断力批判」に至っては苦笑いを禁じ得ないです。
「実践理性批判」に関しては、心を清らかにして読めばすごく清々しい本です。
「神の存在証明」をバッサリと「純粋理性批判」の最後で斬ったカントですが、この本ではものすごく神の存在が濃厚になります。え、同じ作者?って思うほどに。
人間の行動は、理性の道徳的判断によって決められていて、この道徳的判断は最高善(das höchste Gute)に基づいていると。
この道徳的な部分は人間すべてに備わったア・プリオリなものだというわけですが、いわゆる性善説と言ってもいいかも。
さらにこの最高善を目指すこと自体が幸福に結びつくとのことです。
「道徳論は、我々はどうすれば自分を幸福にするかということについての教えではなくて、どうすれば幸福を受けるに価するようになるべきであるかということについての教えである。」
ここでいう幸福とは、個人的な幸福のことではないのです。個人的な幸福による行動は格律(ポリシー/主観に基づくもの)に従うが、それが理性からの命令ではないと。
「道徳的法則の要求するのは、義務に基づく遵法であって、各自の主観的な好みにもとづく遵法ではない。我々はそのような個人的愛好を前提し得るものではなく、また前提すべきではない。」
まあ、こんな風に「きれいごと」とも取れる内容が多々あるんですが、個人的には三批判の中でもっともわかりやすくて好きな本です。自己啓発本としても役に立つかもしれません笑
最後に「判断力批判」ですが、ごめんなさい、これ無理です。
この本には美学なんかの、趣味ともいえる内容が含まれていて、これらの判断に関してもア・プリオリな原理があるはずだと書いてるわけですが、完全にドンキホーテだと思いました。これはさすがに経験的にしか捉えられないでしょ。
下巻では自然に関する判断も載ってましたが、全然入ってこず。
美的判断の最後の方でいきなり音楽をdisり始めたのは笑いました。
あと「永遠平和のために」は時代的なものもあって、アクチュアルではないですが、常備軍の全廃を唱えたり、日本の鎖国は正しかったみたいな文章もあったり、短いながら読ませるところもあります。
ということで以上カントさんでした。疲れた。
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