「失われた時を求めて」by マルセル・プルースト

「20世紀最高の傑作」
「イギリスにシェークスピアがいるように、そしてドイツにゲーテがいるように、我がフランスにはプルーストがいる」
等、枚挙に暇のない賛辞を贈られる文学。それがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」。
「プルースト」という単語を検索するだけで、その名を冠した本の多さにびっくりします。実際こないだ古本屋に立ち寄ったら、「プルースト」がタイトルについてる本が20冊以上はありました。それだけ研究の対象にされてきたマルセル・プルースト。ここまで研究者を熱狂的にさせる文学者は後にも先にも中々いないんじゃないでしょうか。
以前から気にはなってて、実際ちくま文庫の全巻セットまで購入しつつも、その長さ(フランス語原著にして3000ページ以上、日本語訳では400字詰め原稿一万枚!)に、中々手をつけられずにいました。
現在ドストエフスキーからニーチェまで、新たな日本語訳に取り組んでいる光文社古典新訳文庫からも出ていますが、これは今後10年かけて訳していくという壮大なプロジェクトなため、とてもじゃないけど待てないので、重すぎる腰を上げて、井上究一郎氏の訳によるちくま文庫で読み始めたのが昨年末。
そこから今月(3月)頭ぐらいにようやく読み終わりました。実に3ヵ月かかった。。。
文学をこのブログで取り上げるのは初めてで、特に大したことは書けないけれど、やっぱなんか書いときたいな、ってことで所感を記事化することにしました。
まず、正直に告白すると、僕はこのタイトルから漠然とSFチックな小説だと思い込んでました。。。タイムトラベル的な。。。アホ丸出しです。なので、読みはじめから想像してたのと全然違って戸惑い半端なかったです笑
さすがに冒頭のマドレーヌのシーンは知っていましたが。。。
そんなアホ話はさておきそのマドレーヌです。
主人公が紅茶にマドレーヌをつけて食べたところから一気に過去の記憶へと遡り、物語は始まります。
水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のすべての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンプレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。(第一篇 スワン家のほうへより)
やはり、この小説の神髄は上記のような、「無意識的記憶」。
体が勝手に覚えてたってやつですね。
実際この手の記憶は視覚や聴覚よりも、嗅覚>味覚>触覚の順で強い気がします。
そしてこれらの感覚は一旦記憶されると死ぬ直前まで強固に残り続けるのです。
古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存在するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。(第一篇 スワン家のほうへより)
五感の中でもこの3つの感覚は非常に主観性の強い感覚です。
なので、中々文字を尽くしても語りきれない。
そこに果敢に挑んでいる点で、他の文学と一線を画している気がします。
執拗なほどに文字化していくその態度はほとんど狂気の沙汰です。
それゆえに、非常に読みにくいのも確かです。
なにせ中々想像ができませんからね。
それでも、その表現達は惚れ惚れするものも多く、小説を読んでいるというよりは、長い散文詩を読んでいるような感覚にしばしば陥りました。
僕が特に好きな表現はこれ。
何かがあたったように、窓ガラスに小さな音が一つ、つづいて、上の窓から人が砂粒をまいたかのように、ゆたかな量感の、さらさらとした落下、ついでその落下はひろがり、そろって、一つのリズムをおび、流となり、ひびきとなり、音楽となり、無数にひろがり、くまなく四面に満ちた、ー雨だった。(第一篇 スワン家のほうへより)
あとはこれ。
窓ガラスのなかの、黒い小さな森の上に、ふと私は雲の切れこみを目にしたが、そのやわらかいうぶ毛のような部分は、固定化した、死んだ、もう変化はしないようなばら色であって、そこから生えたつばさの羽と同色であり、画家が気の向くままになすりつけたパステル画の色彩のようであった。しかし、よく見ると、それは、気まぐれな、生気のない色彩ではなく、反対に、生きたもの、生きる必要をもったものであった。まもなく、その色彩の背後に、たくわえられていた光が、密集した。色彩は生き生きとし、空は薄肉色になった、その色を、私は目をガラスにくっつけながら、もっとよく見ようとつとめるのであった、なぜなら私はその空の色が自然の深遠な存在と関係があることを感じるからであった。しかし、線路が方向を転じたので、汽車はまわった、そして朝の景色は、窓枠のなかで、満点の星を散りばめた空の下、月光に青く照らされた屋根をもち、夜の乳白色の真珠母を塗りつけた恊働洗濯場をもった、とある夜の村と入れかわった。それで私が、さっきのばら色の空の帯が失われたことを悲しんでいると、こんどは向こう側の窓にふたたびそれが赤い帯となってあらわれるのを認めたが、それも二度目の線路のまがりかどで、また見えなくなった、そこで私は、間歇的な、かわるがわる反対側にあらわれる、移りやすい、深紅の、この美しい朝の断片を、よせあつめ、描きかえ、全体の光景、連続した画幅をつくりあげようとして、一方の窓から他方の窓へと走りあるいて時を過ごすのであった。(第二篇 花咲く乙女たちのかげにIより)
はたまたこんなの。
睡眠をはこぶ天馬は、太陽をはこぶそれとおなじように、変わらぬペースである気圏のなかを進行し、どのような抵抗もそれを停止させることはできないのであって、そうした規則正しい睡眠をつかまえるには、われわれとは無縁な何か隕石のようなもの(ある未知なものによって青空から投げられる?)が必要であり(そうでもしなければ、睡眠はどうしてもとまらず、永久におなじ運動をつづけるだろう)、そうすることによって、はじめてその進行に急旋回をとらせ、睡眠を現実の方向に立ちかえらせ、一瀉千里に、生命の圏内につれもどしーそうした圏内に近づくにつれて、睡眠者は、生命から発する雑音を漠然と耳にし、やがてそれは歪曲されながらも次第にききとれるまでになりーそのようにして、睡眠を、突然覚醒の地域に着陸させる。そのときわれわれは、そんな深いねむりから、ある薄明のなかにめざめるのだが、自分が誰であるかを知らず、自分はまだ何ものでもなく、生まれかわったように新しく、何にでもなれる状態にあり、脳は、それまで生きてきたあの過去というものをふくまず、空虚になっている。それがさらにひどく感じられるのは、おそらく、覚醒の着陸が乱暴におこなわれるときであろう、すなわち忘却の衣に被われた睡眠の観念が、覚醒につれて徐々に立ちかえるゆとりのないときであろう。そんなとき、われわれは真暗な嵐をつきぬけたような気持ちになる(もっとも、そんなときのわれわれは、われわれという語にさえ相当しないのだが)、とにかく、内容の空白な一種の「われわれ」が、そうした暗黒の嵐のなかから、思考力をもたず、からだを横たえたままで、出てくるのだ。(第四篇 ソドムとゴモラⅡより)
この詩情を崩さないように訳すのは相当大変だったと思います。
特にフランス語というのは、独特な韻律があるので、フランス語独自の表現が多いんだろうな、と読みながら想像できました。もろに訳し方に混乱が出てるところも多々あり、訳者の方の苦労を垣間みました。
特に主人公が人や土地の名前にすごく執着していて、これらにイメージを与えるのですが、僕にはなんのこっちゃな世界感でした。
たとえば「ゲルマントのあの『アント』antesというシラブルから出てくるオレンジ色の光」とかなんのこっちゃですからね。。。
さらにこの本を読んでいくのに大変なのが、物語と聞いて思い浮かぶあの「起承転結」の概念が非常に希薄で、ずーっと同じ調子で続いていく。いまいち盛り上がりもないし、サロンなんていつまでたっても終わらないし(まるでスラダンの山王戦のように。。。)普通の物語と同じノリで読むときついです。
ここにこの小説の独自性があるといえばあるんですがね。
つまり、ドストエフスキーのような、当時主流だったロマン小説と言われる、あの「神の目」から見られた世界とはちがって、あくまで主人公が見た世界のみを描いているので、そこまで大きな事件もありません。
事件と言えるのは、そこかしこで勃発する同性愛というテーマ。
こんなに同性愛者がいるのか!?ってぐらい主人公の周りは同性愛者(バイセクシャルも含む)だらけ。
その苦悩っぷりはおもしろいと言えばおもしろいですが。。。
この辺も当時は毛嫌いされた部分でもあったんでしょうね。やはり当時同性愛というのは中々にタブーだったんじゃないでしょうか。それをこんなにふんだんに。。。
あとは、この物語全体に通じる愛情表現がどこか歪んでるんですよね。
愛とは嫉妬であると言わんばかりに、凄まじいジェラシーが渦巻いています。
また、プルーストの芸術感がところどころに表明されてるのもおもしろいですね。
偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それをもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。(中略)一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。そんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。その独自の美にこめられた力のために人の目につきにくくなり、知られずに残っていたあの楽節、それがいよいよ最期にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最期のことになるだろう。少し奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものは(中略)公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。ベートーヴェンの四重奏曲は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲それ自身なのである。人々がいう後世とは作品の後世である。作品自身がその後世を創造しなくてはならないのだ。(第二篇 花咲く乙女たちのかげにより)
そしてドゥルーズが「文学器械」と呼んだのが後半の部分。
彼らは、私の読者ではなく、自分たちの読者であろう。なぜなら、私の本は、彼ら自身を読む手段を彼らに与えるからである。その結果、私は彼らにたいして、私をほめることも、私を悪くいうことも望まないだろう。ただ、私が書いた通りか、彼ら自身のうちに読むことばが、私が書いたものとおなじかどうかを、私に言ってほしい。(第七篇 見出された時より)
大作家は、あの本質的な書物、真実な唯一の書物を、一般に通用している意味で、「発明する」必要はない、なぜなら、それはわれわれ各人のなかにすでに存在しているのだから。それを発明するのではなくて、それを翻訳すればいいのだ。作家の義務と努力は翻訳者のそれなのである。(第七篇 見出された時より)
とまあ、こんな感じで、プルーストが半生を賭して散りばめた彼のエッセンスが、決して強くはないものの、常に鳴り響く通低音のように、この超長文の中に染み渡っています。
なので、単純にストーリーを追うといった形で読むのではなく、詩を読むようにじっくり何年もかけて忍耐強く読むのが正しい読み方なのかも知れません。
また、本当にたくさんのプルースト関連書籍があるので、どれか読んでみるのもいいかもですね。僕は以下を読みました。参考までに。
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