「マチスとピカソ」by イヴ=アラン・ボア

ずっと積ん読だった「マチスとピカソ」を読了しました。
著者のイヴ=アラン・ボア(以下ボア)は、2010年のニューマン展の時に来日してますね。この時のカタログにもテキストを寄せてます。
また、昨年日本でも発売されたばかりの「アンフォルム」という本は、ロザリンド・クラウスと共同でキュレーションした展覧会のカタログ。
実はこの本読んで、ボアにすごい苦手意識ができてしまってて、故に積ん読。
さらに、直前にクラウスの「ピカソ論」を読んで、これもほとんどピンと来なかったから、読み始めるのは中々腰が重かったです。
しかし!
読み始めたら止まらないぐらいおもしろくて、最後泣きそうになるぐらい感動。
やっぱ僕クラウスが苦手みたいです汗
それにしても今更「マチスとピカソ」って。。。って感じですよね。
もう腐るほど聞かされる二人のエピソード。
ほとんど賞味期限切れみたいなこの話題にどう切り込むんかいなと思ってましたが、めちゃくちゃ刺激的で新鮮な内容でした。
マチスの言葉です。
「私は今まで他人からの影響を避けたことがないのです・・・。他人からの影響を避けたりするのは臆病で自分に誠実ではないからだと考えてきました。私は芸術家の人格というものは、ほかの人格と戦わせられるときに、受けるべき苦闘を通じて発展し、自己を確立するのだと信じています。もしこの戦いが破壊的なもので人格が屈服してしまうとしても、それが運命なのです。」
この本は、ひたすらマチスとピカソのお互いの影響関係を実際の作品から論じていくというもの。
冒頭のマチスによる「石膏像のある静物」(1916)とピカソによる「静物 胸像、鉢、パレット」(1932)の対比からいきなり刺激的です。
本当に構図やモチーフがほとんど同じ!
さらには、表紙のマチスによる「夢」(1940)とピカソによる「黄色い髪の女」(1931)なんてほぼ一緒。
こうして、二人の作品が見事に影響し合ってることが作品から紐解かれていきます。
特にピカソは波乱の人生なだけに、その半生から絵の読解が成されることが多いのですが、こうやって、絵そのものから紐解かれていくのは、とても爽快というか、これが本来のあり方やろ、と思います。
それから、別に二人の絵が似ているから揚げ足を取るようにパクりパクられっていう関係に仕立て上げるのではもちろんなくて、お互いがお互いを常に意識し尊敬し合い必要とし合っていたということがものすごく伝わってきてとても美しい物語を読んでいるようです。
そうした二人の友情エピソードもたくさん盛り込まれていて、改めて「マチスあってのピカソ」、「ピカソあってのマチス」なんやなぁと思い知らされました。
それだけに、マチスが死んだ後のピカソの喪失感たるや想像を絶しますね。
ピカソはショックすぎて葬式にも出席しなかったらしい。
この本の締めくくりに置かれた、マチスの死後に描かれたいくつかのピカソの絵は、明らかに逝ってしまった親友のその不在を埋めるかのように、マチス的要素(うす塗り、のっぺらぼうの顔等)が如実に表れているのには本当泣きそうになってしまう。
アートはオリジナリティがなんぼと思われがちですが、こうやって、正面からお互いの絵画を衝突させてきた二人の姿は見ていてとても気持ちがいいです。
中にはマチスがピカソの絵をそのまま模写してる資料とかもあって驚きでした。
マチスも云うように、他人からの影響は避けるべきではないのですね。
この本では主に、この二人の絵画の類似性を論じていますが、逆に大きな相違点について語る第一章の「異なる言語」はとても興味深かったです。
『事実、マチスは対象やモチーフの全存在、彼を絵画やデッサンへの衝動へかりたてる物質性を必要とする。モチーフに「同化する」ために全感官を巻き込むことを必要とした。雇ったモデルを題材に描くときは、彼の「目はモデルの1メートル以内に、ひざはモデルのひざの範囲まで」とても近づかなければならなかった。聖トマスのように、彼は自分の目しか信じられず、そこから印象主義への不信が生じたのだ。
(中略)
ピカソが重視するのは同化することではなく、解釈することである。何かを描くために、ピカソはそれを別のものとして最初に「見」なければならなかった。この変換の過程がきわめて顕著なのは肖像画である。ピカソが数えきれないぐらいデッサンや絵画に描いたフランソワーズ・ジローは、彼のために二回しかポーズを取っていないことを覚えている。(中略) この隠喩的な「として見る(seeing as)」ことはピカソ芸術の本質である。』
また、同じ章のボアが「マチスシステム」と称するテキストもおもしろいです。
『マチスは「スケールのためにサイズを超越す」べく、拡張し、膨張する芸術を求めた。フランク・ステラがかつて言ったように、マチスの絵というのはいつも実際より大きいものとして思い出される。マチスのスケールは、少数の平坦な平面にもとづいており、実際のカンヴァスのサイズがどんなものであっても、常に大きい。この拡張する感覚は、透視法やモデリングといった空間表現の伝統的な手法はすべて使用できなくする。伝統的な手法では絵画を奥行きによってくり抜くので、スケールの横の広がりを損なう。マチスの絵画の最上のものは、爆発寸前の風船のように最大限まで張り詰められている(ピカソはこのことをよく知っており、「マチスは大声だ」とよく言っていた)。この全体にゆきわたる緊張感のみなぎりは、ピカソ芸術に勝るとも劣らず過激なマチス芸術の経済性によって高められる。(絵の中で有益ではないものはなんでも有害なものだ)。それは絵画平面全体における等質化の、また力の分散の産物である。観者の視線は、どこにおいても絵の特定の部分にとどまることを禁じられている。画面のこのオール・オーヴァーな概念、それ自体が質と量の等式のひとつの機能を果たしているものから、マチスの表現理念が明らかになる。』
この春に見たマチスの「赤い部屋」は確かにものすごく広がりのある絵でした。
以前カプーアの記事でも書いたんですが、色というのは作品にとってとても重要。
最もセンスの試されるところであり、それを考えるとやっぱりマティスを超える芸術家ってどこを探してもいないような気がしてきました。
もちろんイヴ・クラインやニューマン、カプーアなど、卓越した色のセンスを持っている作家が何人かいますが、それでもほとんどが単色であったりしますよね。
フォーブ(野獣)のようだと称されたマティス絵画ほど、たくさんの色を使いながら、色の可能性を最大限まで引き出してる絵画は他にないように思えます。
だから、晩年の切り絵にしても、マチスだからこそできる技なんですよね。
その点でも、カラー図版がたくさん載ってるこの本はすばらしいです。
でも、この本には彼のドローイングも多数収められてますが、鳥肌が立つぐらいすごい。
ピカソかマチスどっちが本当の天才?って聞かれたら間違いなくマチスでしょうね。
もうちょっと、線にしても色にしても人間業とは思えないです。
2004年の上野でやってたマチス展は本当にすばらしいものでした。
僕が今まで見てきたすべての展覧会の中でもかなり上位の展覧会でしたね。
あれ見てからマチスの見え方相当変わりました。
この本読みながらあの展覧会また思い出しちゃいました。
また大規模なマチス展とかやってほしいな。まとめてたくさん見たい。
彼の手がけたヴァンスのロザリオ礼拝堂はいつか必ず行きたいですね。
この本は、キンベル美術館で1999年に行われた「Matisse and Picasso : A Gentle Rivalry」展の為に刊行されたカタログの日本語版だそうです。なんて豪華な!
この展覧会見てこの本読んでたらさらに理解深まったでしょうね。観たかったな。
ていうかキンベル美術館自体ルイス・カーンの代表作なので行ってみたい。
近くには安藤忠雄の美術館もありますね。
とにかくとてもすばらしい本でした。少し値は張りますがおすすめです。
最近出た「マティス: 知られざる生涯」も気になります。
その前に絶賛積ん読中の「マチス 画家のノート」も読まねば。
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