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「知覚の宙吊り─注意、スペクタクル、近代文化」by ジョナサン・クレーリー



ジョナサン・クレーリーの「知覚の宙吊り」と「観察者の系譜」を読了。
彼の単著としてはこの2冊しかありません。
寡作ながら視覚論を考えるには今や避けて通れない論客と言えるかもしれません。
とはいえ、もう読むのに滅茶苦茶苦労しました。
この2冊に言えるのは、問題が非常に広範囲に渡っていること。
てっきり美学に終始した本かと思ってたら大間違い。
心理学から精神医学、哲学や社会学や行動学、現象学、経済学。。。。
あらゆる学問が織り交ぜられています。
「観察者の系譜」→「知覚の宙吊り」という順番で読みましたが、これは正解でした。

「観察者の系譜」は、教科書的な本です。
視覚論にすんごく興味のある人以外が読んでもほとんどおもしろくないと思います。
19世紀の視覚に関する知識の革命、つまり、デカルトあたりが論じていたカメラオブススクーラのような透明モデルから、次第に解明されていく視覚(知覚)の不安定さ(散漫さ)をどう解消していくかの道程がこれでもかと言わんばかりに丁寧に書き連ねられています。
1冊持っておいて、この辺りどういう順番やったっけ?という感じで、後で参照したりするのにはいいかもしれませんね。
なんしか、本としてのおもしろさは個人的に感じられませんでした。

しかし、「知覚の宙吊り」になると、この「観察者の系譜」で培われた歴史感が大いに生かされて、はるかにおもしろい読み物と化します。
テーマを近代の「注意」に対する考え方に絞り、その具体的モデルをマネの「温室にて」スーラの「サーカスのパレード」セザンヌの「松と岩」という3つの作品に託し、さらに1879年、1888年、1900年という具体的年代に立脚しながらその背景がつづられていきます。
それにしても、やはり広範な情報がこの本の中でも溢れまくっていて、あっちこっちに連れて行かれる感覚があり、個人的には「注意散漫」になってしまった感は否めません。
特にスーラを扱った第三章。この章だけで116ページもあります。
マネの第二章が66ページ、セザンヌの第四章が76ページに対してあまりに多いページ数。
それ深読みすぎやろ!ってのが多かったのも第三章。
特に「サーカスのパレード」の左側の木が、当時話題だったヘルムホルツの「生理光学論」に出てくる網膜血管を表す樹木モデルの暗示ではないかという指摘はちょっとやりすぎだと思うんですが。。。
原注がやたらに多いのもこの本の特徴。なんと169ページもあります。。。
ちなみにこの第三章には286個もの注がついているという鬼畜っぷり!
(ちなみに第二章には128個、第四章には178個でした)
また、当時登場してきた様々な視覚を扱う器械が登場するんですが、どれがどれかわからん!
カイザーパノラマキネトスコープステレオスコープゾートロープタキストスコープフェナキストスコーププラクシノスコープ、、、
こういうのって、いくら言葉で説明されてもよくわかんないんですよね。。。
まあ、その中でもエミール・レイノーによる、プラクシノスコープの図像とスーラの「サーカス」の類似の指摘は興味深かったですね。
スーラの絵って確かにこういうアニメーションがかかった図像がいくつかあります。
最も有名な「グランド・ジャット島の日曜日の午後」はとても静的なイメージですが、どこかアニメっぽいんですよね、描き方が。
スーラと言えば、光学的な捉えられ方の方が先攻して、描かれているモチーフ自体に深く切り込んだ論考ってあまり読んだことがなかったので新鮮でした。
あと、これまであまり取り上げられることの少ないマネの「温室にて」を取り上げているのもおもしろい。
この女性の表情と当時解明されていく病理学とが結びついていくのはすごいですね。
それでもやはりセザンヌの考察が個人的には一番興味深かった。
GWには国立新美術館のセザンヌ展観に行こうと思ってるので、その予習のいい導入になりました。
セザンヌの絵ってやっぱり難しいと思うんです。どっからどう観ても。
パースが狂ってるとか、リンゴがこぼれ落ちそうとかそういう解釈だけでは済まされない何かがあの絵の中に濃縮されていて、パッと観ただけではわからず、かといって観れば観るほどわけがわからなくなってくる絵だと思います。
ここでちょっと長いですが引用します。

彼が発見したのは、知覚はその形成過程以外のいかなる形態もとりえない、ということである。もはや、移りゆく世界の外観を記録することが問題なのではない。近くそのものの不安定さに直面し、そこに居を構えることが問題となるのである。セザンヌはおそらく誰よりも洞察力鋭く、知覚に根源的な、それ自体との差異を認識することで、注意のパラドクスを明らかにしたのである。マネが部分的に直感していたものが、セザンヌの実践において実り多い結果をもたらすこととなった。つまり、セザンヌの創造的な発見とは、いかにひとつのものを熱心に見ても、そのような凝視は、ものの現前、ものの豊かな無媒介性をより完全で包括的に把握することにはつながらなかったということである。むしろ、凝視することは、かえって知覚上の分裂と喪失を導き、認識可能な形態としてものを見ることを不可能にしたのである。こうした視覚の崩壊は、それまで知られることのなかったさまざまな力の中へと組み込まれていった。そこでは、注意は絶えず制限されつつ持続し、必然的に散漫な状態へと分散していった。もはやこうした状態では、ひとつの、あるいはさまざまな事物の布置を把握する為の指標と目されてきたものは通用しなくなる。同様に、視覚を孤立点へと強く固定することで生じる明晰性は、その明晰性の溶解に通じており、いかなる固定化もこのことを回避することはできないのである。セザンヌにとって注意力に固有のこの溶解は、世界の徹底的な脱象徴化を裏づけるだけではなかった。それはまた、従来考えられてきたような「外的」事象と、感覚とのあいだの一連の関係に絶えず調整を加え、そこにひとつのインターフェイスを生み出すものだったのである。このようにして彼は注意力を研ぎ澄ますことで、かえって、知覚に不変性を与えるいかなる前提をも、まっさきに打ち消してしまったのである。

後期セザンヌにおける、あの薄塗りの連続は、まさにこのことを示しているように思います。
つまり、彼は、その視線をある一点に注ぎ込むのではなく、あえて視線をきょろきょろと動かすことで、世界を綜合物として捉え、ひとつのキャンバスに組み込んでいったのではないかと。
一見散漫にも見える彼の絵ですが、そこには世界を「必死で」見据えようとする彼の止めどない視線を感じることができるのです。

んー、全体的に勉強不足が諸に仇となりました。
もう少し勉強してから再読してみたいですね。
この流れでハル・フォスターの「視覚論」あたりに流れ込むべきですが、そろそろセザンヌ系の本をユリイカを含めて読み始めなければ。
てか、個人的にMIT系の本って苦手です。あの言い切る感じがどうにも。。。
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