「ピュグマリオン効果」by ヴィクトル・I・ストイキツァ
ストイキツァ続きます。
かつて-二世紀あまりまえのことー芸術が美術館へと追いやられたとき、その追放を達成したのは、ひとつの禁止であったー「作品に手を触れないでください」。
これはおそらく、唯一正しいものとなった作品との接し方、視覚体験を侵犯するあらゆる試みを防ぐための一方法であり、純粋な静観という手段とは異なる仕方で<芸術>と<生>とを結びつけようとする試みを、ことごとく拒絶するものであった。「触れるな」という厳命は、「芸術作品」においてイメージが物(chose)に勝利した帰結であり、その非現実性としての側面が聖別された結果であった(そして今もなおそうである)。イメージとはー周知のとおりー世界の残りの部分からは区別される。それは実在しないのだ。「作品に触れること」、それはイメージを事物(オブジェ)の段階へと後退させることであり、創造界の秩序に属するイメージの本質そのものを損なうことなのである。
本書はこの非常に印象的な文章から幕を開けます。
ピュグマリオンとは、非常に卓越した技術をもった彫刻家ピュグマリオンが、ついに自分の作品が本物の人となり、恋に落ちるという伝説で、これをシュミラークルの問題であると提起します。
シュミラークルとは、プラトンの時代から語られてきた、ミメーシス(模倣)から生み出される「イメージーイコン」を超え、実存するファンタスムのこと。
そこから歴史的にこの物語の解釈を巡っていくのですが、いかんせんこれは僕の興味から少し遠いかな、という感じ。
というか、このピュグマリオンを起点として、様々な作品に展開していくのかと思ってたら、結構ずっとピュグマリオンのことに終始していて予想と違いました。
今回も図版を多く用いて、ストイキツァお得意の弁証法が繰り広げられます。
この本で最もはっとしたのは、エティエンヌ=モーリス・ファルコネの「自らの彫像の足下にひざまずくピュグマリオンを表した大理石増、彫像が生命を得た瞬間」(1763)と、同じく「水に入るニンフ」(1757)ですね。
それまでは絵画や版画、はたまた舞台などで視覚的に伝えられてきたピュグマリオンを、そのど真ん中の彫刻で表現したファルコネ。これは、メタ絵画ならぬメタ彫刻です。
両作品とも台座が二重に登場しているのがとてもおもしろいですね。
ただ、最後まで期待していた広がりを見せられなかったのは残念。
最後はヒッチコックの「めまい」が現れますが、やや唐突な印象。
冒頭の序文に関する考察もやや浅め。というかあれなんやったん?って印象。。。
ピュグマリオン伝説を通してもっと芸術需要の変遷とかにも触れられたんじゃないかな、とも思う。
本書はピュグマリオンに関してではなく、ピュグマリオンが与えた効果をもっと広汎に描いて欲しかったな。
最後の章でバービー人形とかにも触れてるけど、それならピノキオとか、アニメーションにももっと触れるべきだったと思う。アトムとかもそうやね。
最後に訳者が後記として書いてた、日本の甚五郎と梅ヶ枝の話はおもしろかった。これもまさに日本版ピュグマリオン!
個人的にちょっと期待はずれでした。
さて、ストイキツァラストで「絵画をいかに味わうか」も読了。
ストイキツァの本で邦訳されているものとしてはあと、「幻視絵画の詩学―スペイン黄金時代の絵画表象と幻視体験」と「ゴヤ―最後のカーニヴァル」がありますが、個人的にスペイン絵画には興味薄いので、また今後折に触れて読んでみたいと思います。
で、この「絵画をいかに味わうか」ですが、こちらはなんと日本でしか刊行されていません。
ストイキツァが岡田温司さんらに招かれて日本を訪れた際に書かれた貴重な自伝などがおさめられていて、日本の読者としては非常にうれしい本です。
ストイキツァは当時社会主義国家だったルーマニアに生まれ、大学時代の奨学金でイタリアへ渡り、その後パリ大学にて博士課程を修了。留学後帰国し、自国の閉ざされた文化と闘いながら、ほとんど亡命に近い形でスペイン人の奥さんとドイツへ渡り、現在スイスで教鞭をとっているという凄まじい経歴。。。
これほどの広汎な知識は、様々な言語を操り、原文であらゆる書物を読むことができたのと、西欧の中心からはずれた「周縁」で育ったからこそ見渡すことのできる視点によって彼の研究が成されていることを知り、ますます興味がわきました。もう少し早ければ日本での講演も聴けたのにな。。。またやってほしい。
この自伝の他、短編エッセイがいくつか収録されています。
この本のタイトル「絵画をいかに味わうか」という言葉は、ティツィアーノの「ウェヌスの祝祭(The Worship of Venus) 」(1518-1520)に捧げられたエッセイのタイトルでもあります。(この絵はこの本の表紙にもなってます。)
「絵画」という言葉と「味わう」という撞着語法のような言い回しですが、この本を読んでいると、絵画は観る為のものではなく、その匂いを嗅ぎ、肌に触れ、そして味わうものだということが伝わってきます。
このティツィアーノの絵画は、まさにその例として機能していきます。
この絵は、フィロストラトスの著書「エイコーネス」の中の「アモルたち(Erotes)」という章で事細かに説明された絵画を元に描かれた絵画だというのが特徴。
こういう文章で表現された絵画をエクフランシスというそうです。
実態なき絵画の模写、というわけですね。すごい話です。
この絵の中に登場するうじゃうじゃいる天使(アモル)たちの中で、一人だけこちらに目線を向けた天使が頬張るリンゴこそが、その味を視覚を通して伝えているという話でした。
このエクフランシスに関して、もう一つのエッセイ「スイスの「白痴」-ドストエフスキーによるエクフランシス」でも取り上げられていて、彼の小説の中に出てくる、ホルベインによる「墓の中のキリスト」(1521-1522)が挙げられます。
横長のキャンバスに描かれたキリストの死。そこには聖性など微塵も感じさせない、まさに死臭すら漂ってきそうな死、そのものが描かれています。
その絵を実際に観たドストエフスキーはその場から動けなくなったそうです。
そして彼の晩年の小説に現れるその絵は数ページにも渡って、エクフランシスが展開します。
こうした小説の中で描かれるエクフランシスについて真っ向から書き出そうとする美術史の文章に出会ったことがなかったので新鮮でした。(プルーストによるフェルメールの「デルフトの眺望」に関する考察はいくつか見受けられますが)
大体の美術史家は門外である小説家の書いたエクフランシスを無視しがちです。それでも彼らは言葉のプロなわけですから、彼らの紡ぐエクフランシスを無視するのはいかがなものかと。
やはりストイキツァの視点は新鮮に響きます。
(あぁ、「白痴」持ってるのにまだ読んでない。。。)
さらに触覚に関して、カラヴァッジョの描く天使たちを登場させます。
以前クールベは「私は天使は描かない」と言って、見えないものたちを完全に否定しましたが、カラヴァッジョの描く天使たちを見ていると、本当に存在するのではないかという疑念すら湧いてきます。これは他の画家が描く天使に対して全くと言っていいほど湧かない感情です。
なんといってもその存在感は、彼の描く天使の触知性です。彼は天使に影を与え、さらにその特徴である羽を描かないことも多々あります。
そんな中でも「聖マタイと天使」(1602)は秀逸。直接天使がマタイに触れて、マタイもそれに気づいているご様子。。。「見えないものは描かない」と言ったクールベもびっくりな絵ですね。ここでの天使は確実に見えていて、さらに触れてすらいます。
この絵はすでに焼失してこの世にないそうです。。。残念すぎる。
さらにこの絵は当初祭壇画として描かれたそうですが、当時の宗教画としては、あまりに不謹慎な絵だと突き返され、代わりに描かれた絵はこちら。こちらは今も健在です。これはこれで、当時物議を醸したそうですが、前よりかはいいってことで受け入れられたんですね。こちらも天使がはっきり見えるものとして描かれています。
同じ主題を描いたレンブラントの「聖マタイと天使」(1661)と比べれば明らか。
レンブラントの描いたマタイは天使の存在に気づいてませんもんね。
それにしてもこのエッセイの冒頭の天使に関するストイキツァ自身の逸話がかわいいですね。
守護天使を信じていた少年ストイキツァは、背後に確実にいるけど、振り返ったら隠れてしまうその天使を見るべく世界中の人たちと輪になってお互いの天使を確認し合おうという壮大なプランを描いていたというエピソード。いいですね、そういうの。僕も家の中にもうひとり誰かいると小さい時ずっと信じてました(こわい)
最後にマネとドガの意外な交友に関して触れられますが、興味深かったのが、マネとドガの絵画の決定的な違いですね。
すなわち、マネの絵画にはよくこちらに視線を投げ掛けてくる人がいるんですが、ドガの絵にはほとんど出てこず、覗き見みたいな形で描かれているんですよね。(そういえばそういうことを宇多田ヒカルが以前日記に書いてた気がする。。。ドガのチラリズムがたまらん的な)
マネの絵画のおもしろさは、絵画自身が観客に自覚的であり、むしろ視線を投げ返してくる挑発的な性格を有しているというところですよね。「オランピア」なんかはその好例で、それが当時大スキャンダルになったわけですから。彼の代表作はほとんどがそうです。(そんな中でも「バルコニー」は例外ですね)
ここでもっとも自覚的な作品として挙げられるのが、「テュイルリー公園の音楽会」(1862)です。
ここで最も注目されるのが署名です。
なんとこの絵の右端に書かれたManetという文字が、椅子の足に一部隠れているんです。
まるで地面に描かれていたものをモチーフとして描いたみたいなノリです。
やっぱマネはわけわかりませんね。すごすぎます。
こうして絵画を視覚以外の感覚を総動員して「味わう」対象として扱った本作は、短編集にありがちな散漫さもほとんどなく、楽しく読めました。
現在は映画にも興味を抱いているそうで、今後の活躍が楽しみです。

かつて-二世紀あまりまえのことー芸術が美術館へと追いやられたとき、その追放を達成したのは、ひとつの禁止であったー「作品に手を触れないでください」。
これはおそらく、唯一正しいものとなった作品との接し方、視覚体験を侵犯するあらゆる試みを防ぐための一方法であり、純粋な静観という手段とは異なる仕方で<芸術>と<生>とを結びつけようとする試みを、ことごとく拒絶するものであった。「触れるな」という厳命は、「芸術作品」においてイメージが物(chose)に勝利した帰結であり、その非現実性としての側面が聖別された結果であった(そして今もなおそうである)。イメージとはー周知のとおりー世界の残りの部分からは区別される。それは実在しないのだ。「作品に触れること」、それはイメージを事物(オブジェ)の段階へと後退させることであり、創造界の秩序に属するイメージの本質そのものを損なうことなのである。
本書はこの非常に印象的な文章から幕を開けます。
ピュグマリオンとは、非常に卓越した技術をもった彫刻家ピュグマリオンが、ついに自分の作品が本物の人となり、恋に落ちるという伝説で、これをシュミラークルの問題であると提起します。
シュミラークルとは、プラトンの時代から語られてきた、ミメーシス(模倣)から生み出される「イメージーイコン」を超え、実存するファンタスムのこと。
そこから歴史的にこの物語の解釈を巡っていくのですが、いかんせんこれは僕の興味から少し遠いかな、という感じ。
というか、このピュグマリオンを起点として、様々な作品に展開していくのかと思ってたら、結構ずっとピュグマリオンのことに終始していて予想と違いました。
今回も図版を多く用いて、ストイキツァお得意の弁証法が繰り広げられます。
この本で最もはっとしたのは、エティエンヌ=モーリス・ファルコネの「自らの彫像の足下にひざまずくピュグマリオンを表した大理石増、彫像が生命を得た瞬間」(1763)と、同じく「水に入るニンフ」(1757)ですね。
それまでは絵画や版画、はたまた舞台などで視覚的に伝えられてきたピュグマリオンを、そのど真ん中の彫刻で表現したファルコネ。これは、メタ絵画ならぬメタ彫刻です。
両作品とも台座が二重に登場しているのがとてもおもしろいですね。
ただ、最後まで期待していた広がりを見せられなかったのは残念。
最後はヒッチコックの「めまい」が現れますが、やや唐突な印象。
冒頭の序文に関する考察もやや浅め。というかあれなんやったん?って印象。。。
ピュグマリオン伝説を通してもっと芸術需要の変遷とかにも触れられたんじゃないかな、とも思う。
本書はピュグマリオンに関してではなく、ピュグマリオンが与えた効果をもっと広汎に描いて欲しかったな。
最後の章でバービー人形とかにも触れてるけど、それならピノキオとか、アニメーションにももっと触れるべきだったと思う。アトムとかもそうやね。
最後に訳者が後記として書いてた、日本の甚五郎と梅ヶ枝の話はおもしろかった。これもまさに日本版ピュグマリオン!
個人的にちょっと期待はずれでした。
さて、ストイキツァラストで「絵画をいかに味わうか」も読了。
ストイキツァの本で邦訳されているものとしてはあと、「幻視絵画の詩学―スペイン黄金時代の絵画表象と幻視体験」と「ゴヤ―最後のカーニヴァル」がありますが、個人的にスペイン絵画には興味薄いので、また今後折に触れて読んでみたいと思います。
で、この「絵画をいかに味わうか」ですが、こちらはなんと日本でしか刊行されていません。
ストイキツァが岡田温司さんらに招かれて日本を訪れた際に書かれた貴重な自伝などがおさめられていて、日本の読者としては非常にうれしい本です。
ストイキツァは当時社会主義国家だったルーマニアに生まれ、大学時代の奨学金でイタリアへ渡り、その後パリ大学にて博士課程を修了。留学後帰国し、自国の閉ざされた文化と闘いながら、ほとんど亡命に近い形でスペイン人の奥さんとドイツへ渡り、現在スイスで教鞭をとっているという凄まじい経歴。。。
これほどの広汎な知識は、様々な言語を操り、原文であらゆる書物を読むことができたのと、西欧の中心からはずれた「周縁」で育ったからこそ見渡すことのできる視点によって彼の研究が成されていることを知り、ますます興味がわきました。もう少し早ければ日本での講演も聴けたのにな。。。またやってほしい。
この自伝の他、短編エッセイがいくつか収録されています。
この本のタイトル「絵画をいかに味わうか」という言葉は、ティツィアーノの「ウェヌスの祝祭(The Worship of Venus) 」(1518-1520)に捧げられたエッセイのタイトルでもあります。(この絵はこの本の表紙にもなってます。)
「絵画」という言葉と「味わう」という撞着語法のような言い回しですが、この本を読んでいると、絵画は観る為のものではなく、その匂いを嗅ぎ、肌に触れ、そして味わうものだということが伝わってきます。
このティツィアーノの絵画は、まさにその例として機能していきます。
この絵は、フィロストラトスの著書「エイコーネス」の中の「アモルたち(Erotes)」という章で事細かに説明された絵画を元に描かれた絵画だというのが特徴。
こういう文章で表現された絵画をエクフランシスというそうです。
実態なき絵画の模写、というわけですね。すごい話です。
この絵の中に登場するうじゃうじゃいる天使(アモル)たちの中で、一人だけこちらに目線を向けた天使が頬張るリンゴこそが、その味を視覚を通して伝えているという話でした。
このエクフランシスに関して、もう一つのエッセイ「スイスの「白痴」-ドストエフスキーによるエクフランシス」でも取り上げられていて、彼の小説の中に出てくる、ホルベインによる「墓の中のキリスト」(1521-1522)が挙げられます。
横長のキャンバスに描かれたキリストの死。そこには聖性など微塵も感じさせない、まさに死臭すら漂ってきそうな死、そのものが描かれています。
その絵を実際に観たドストエフスキーはその場から動けなくなったそうです。
そして彼の晩年の小説に現れるその絵は数ページにも渡って、エクフランシスが展開します。
こうした小説の中で描かれるエクフランシスについて真っ向から書き出そうとする美術史の文章に出会ったことがなかったので新鮮でした。(プルーストによるフェルメールの「デルフトの眺望」に関する考察はいくつか見受けられますが)
大体の美術史家は門外である小説家の書いたエクフランシスを無視しがちです。それでも彼らは言葉のプロなわけですから、彼らの紡ぐエクフランシスを無視するのはいかがなものかと。
やはりストイキツァの視点は新鮮に響きます。
(あぁ、「白痴」持ってるのにまだ読んでない。。。)
さらに触覚に関して、カラヴァッジョの描く天使たちを登場させます。
以前クールベは「私は天使は描かない」と言って、見えないものたちを完全に否定しましたが、カラヴァッジョの描く天使たちを見ていると、本当に存在するのではないかという疑念すら湧いてきます。これは他の画家が描く天使に対して全くと言っていいほど湧かない感情です。
なんといってもその存在感は、彼の描く天使の触知性です。彼は天使に影を与え、さらにその特徴である羽を描かないことも多々あります。
そんな中でも「聖マタイと天使」(1602)は秀逸。直接天使がマタイに触れて、マタイもそれに気づいているご様子。。。「見えないものは描かない」と言ったクールベもびっくりな絵ですね。ここでの天使は確実に見えていて、さらに触れてすらいます。
この絵はすでに焼失してこの世にないそうです。。。残念すぎる。
さらにこの絵は当初祭壇画として描かれたそうですが、当時の宗教画としては、あまりに不謹慎な絵だと突き返され、代わりに描かれた絵はこちら。こちらは今も健在です。これはこれで、当時物議を醸したそうですが、前よりかはいいってことで受け入れられたんですね。こちらも天使がはっきり見えるものとして描かれています。
同じ主題を描いたレンブラントの「聖マタイと天使」(1661)と比べれば明らか。
レンブラントの描いたマタイは天使の存在に気づいてませんもんね。
それにしてもこのエッセイの冒頭の天使に関するストイキツァ自身の逸話がかわいいですね。
守護天使を信じていた少年ストイキツァは、背後に確実にいるけど、振り返ったら隠れてしまうその天使を見るべく世界中の人たちと輪になってお互いの天使を確認し合おうという壮大なプランを描いていたというエピソード。いいですね、そういうの。僕も家の中にもうひとり誰かいると小さい時ずっと信じてました(こわい)
最後にマネとドガの意外な交友に関して触れられますが、興味深かったのが、マネとドガの絵画の決定的な違いですね。
すなわち、マネの絵画にはよくこちらに視線を投げ掛けてくる人がいるんですが、ドガの絵にはほとんど出てこず、覗き見みたいな形で描かれているんですよね。(そういえばそういうことを宇多田ヒカルが以前日記に書いてた気がする。。。ドガのチラリズムがたまらん的な)
マネの絵画のおもしろさは、絵画自身が観客に自覚的であり、むしろ視線を投げ返してくる挑発的な性格を有しているというところですよね。「オランピア」なんかはその好例で、それが当時大スキャンダルになったわけですから。彼の代表作はほとんどがそうです。(そんな中でも「バルコニー」は例外ですね)
ここでもっとも自覚的な作品として挙げられるのが、「テュイルリー公園の音楽会」(1862)です。
ここで最も注目されるのが署名です。
なんとこの絵の右端に書かれたManetという文字が、椅子の足に一部隠れているんです。
まるで地面に描かれていたものをモチーフとして描いたみたいなノリです。
やっぱマネはわけわかりませんね。すごすぎます。
こうして絵画を視覚以外の感覚を総動員して「味わう」対象として扱った本作は、短編集にありがちな散漫さもほとんどなく、楽しく読めました。
現在は映画にも興味を抱いているそうで、今後の活躍が楽しみです。

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