「美を生きるための26章」 by 木下長宏

今年後半に控えてる展覧会の為に本を読み漁ってます。
今も目の前に山積み状態。追いつかん…。
そんな中で本当に出会えてよかった本。
それが木下長宏さんによる「美を生きるための26章」。
アルファベット26文字に合わせて、それぞれの頭文字が付く人物を紹介。
中には大乘寺(D)やラスコー(L)なんてのもあるけど、そこはご愛嬌笑
にしてもラスコーって!
木下さんは幼い時から車椅子生活をしてはる人なんやけど、車椅子とは思えない行動力。
ラスコーもフランス政府の許可が出て、車椅子で行ったらしい。。。すごい。
ラスコーは昔は一般人も入れたそうですが、今は保存の為に許可がないと不可。
アートの起源と言われてるだけに死ぬまでに観ておきたいです。
そんなラスコーの様がありありとここに描かれています。
木下さんの描き方がこれまたすごい良くて、ますます行きたくなります。
この本を読むと批評とは何ぞやってことがわかる気がします。
僕がこの本から汲み取ったのは、「評することは愛すること」ということ。
26文字分どの文章にもその人(場所)に対する思いやりが滲み出ていて、読後の爽快感が堪りません。
特にYで取り上げた尹東柱(ユンドンジュ)の回は白眉だと思います。
彼のことはこの本を読むまで知りませんでしたが、彼が抱いた感情の断片が、木下さんの文章を通じて伝わってくるようでした。
そしてなにより、木下さんが注意深く日本語に訳した彼の詩が素晴らしいです。
この本の中では、しばしば木下さん訳による引用が現れます。
決して人の訳に頼ることなく、木下さんなりの言葉で引用されている。
尹の詩を訳すために韓国語も勉強したそうです。
韓国語は、日本語と似て非なる表現が多いので、訳には繊細な注意を要します。
ちょっと気を抜くと全く違う方向に訳してしまったりするんでしょうね。
これまでの尹の詩の日本語訳の難しさがこの文章の中に描かれています。
同志社大学と京都造形大学に、彼の碑が建てられているそうですが、そこに刻まれている詩の日本語訳は木下さん的には不服だそう。特に後者は自分が教えてた大学なのに、どうして自分が間違ってると授業でも教えた日本語訳が刻まれてるんだ!とご立腹でした笑
また、Vのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの回でも、皆があまりに彼を「炎の画家」に仕立てあげたくて、勝手に物語を編んでるという指摘がありました。
作品のタイトルもゴッホの死後に誰かが付けたタイトルだってのはびっくり。
これに関しても丁寧にゴッホの生き方を描いてます。
去年の日曜美術館の木下さんが出ておられたゴッホの回がYouTubeにあったのでリンク貼っておきます。
本にも紹介されてる彼の絶作「麦の穂」に関するコメントもされてますね。
日曜美術館 ゴッホ誕生 ~模写が語る天才の秘密~-01 02 03
同時期に千葉成夫さんの「未生の日本現代美術」を読んでたんやけど、こちらは「日本の絵画・彫刻が如何に未生のまま今に至っているか」という話があって、そこはすごく面白いんだけど、作家を挙げて具体的な批評が始まる段になると、いきなり批評家の傲慢さが表れて、無理矢理自分の器に盛り付けようとする。だからどれも似たような文章だし、途中で作家入れ替えてもわからないかも。
片や木下さんは、まるで自分が水になったように、相手の器に合わせて形を変える変幻自在スタイルで、26章全く読み飽きません。
色んなタイプの批評家がいますが、ほとんどが千葉さんタイプだと思う。
決して千葉さん批判でないんやけど、千葉さんのスタイルはある意味楽なやり方だと思う。
決定的な器を創りだすのが批評家の役目とも言えるのかもしれない。
だけど、やっぱり料理と同じで、それにあった器に盛り付けなければ味だっておいしくなくなる。
如何に料理(作品)を美味しく見せるか。
キュレーターや批評家にはその根本を忘れてほしくないですね。
ちなみに千葉さんの思想としての批評はものすごく面白いですよ。
彼の「現代美術逸脱史1945~1985」は戦後日本美術史を辿るのにすごくわかりやすい名著です。
ちなみにこの「美を生きるための26章」は、木下さんが定年後、横浜で私塾のようなものを開いて、毎週土曜日に開講していた「土曜の午後のABC」という授業をまとめた本。
今もこの私塾は開講していて、今はアルファベットも終わって、一年かけて自画像をテーマに話し続けているらしい!一度聴きに行ってみたいですね。
以下いくつか抜粋。よかったらどうぞ。
・E ワシリィ・エロシェンコ
一般に「芸術」と呼ばれる作品は、二種類の系に振り分けることができると思います。
A 類型的な概念化された表現をくりかえす方法から成る作品系
B 新鮮なイメージとメッセージを提起する作品系
(中略)
それぞれを大切に味わえばいいのですが、現代という時代は、AのくりかえしにとどまっているものをBぶって見せる仕事がはびこっています。そういう作品はしっかり見届けるとAが隠しもっているはずの「生命」はむしろ放り出しています。放り出しているからこそ、Bぶれるのです。逆にAの息のながさ、拡がりの大きさを借用してBぶっている仕事も多く(ポップアート以来顕著な現象ですが)、一見とてもオリジナルなのですが、Aがもっていた「生命」力は共有できない。この「生命」というのは、一種スピリチュアルなもので、かつてAとBがそんなに分裂していなかった時代(近代以前)は、それぞれの作品にスピリチュアルなものがあったと言ったほうがいいでしょう、つまり、「隠れた生命」もまた「スピリチュアルなもの」にほかならないのです。
エロシェンコの汎生命共同体主義は、個体の外形の相違を超えて共通するなにかを探ろうとして出てくるしそうです。この考え方は、彼が盲目であったことと関係があったのかどうか。
「盲目である」ことと「文学/芸術」との関係について、僕が考えられることをすこし考えておきたいと思います。
(中略)
視覚を奪われていない物、いいかえれば非盲目者が、絵を「見る」ように、文字(点字)で造られ積み上げられた、耳から紡ぎ上げ朗読されていく作品を「見ている」のではないか、一枚のキャンヴァスを見るように。キャンヴァス(タブロー)を見るように聴くあるいは触れて追う。触覚による(指で読みとる)方法は、時系列的想起によるイメージのつくりかたですが、触覚を通して残るのはつねにタブロー的なのではないか。その意味で「盲目である人の文学」は「触覚的タブロー」をつくっていると言えないか、ということなのです。エロシェンコの見えない眼の奥、網膜の彼方には、キャンヴァス/タブローのように作品が開いているーーそういう能力を彼はもっていた。それは文学を現代よりはるかに絵画的に読んでいたにちがいない近代以前の人々の絵画=絵巻とか壁画とかのありかたと共有するところの多い能力のような気がします。
・F ミシェル・フーコー
フーコーが同性愛を生きた人だというのは、誰もが知っていることですが、同性愛者であるということは、社会から排除される存在ということでした。
(中略)
しかし、彼の著述、後年の社会活動、デモや声明、被疎外者たちの手記への序文などみても、「同性愛者に保護と権利を!」などという活動はしていません。じつは、このことは、ミシェル・フーコーを考える場合、とても大切なことだと思います。
彼はつねに社会から排除された存在に関心をもち、その抑圧の歴史と原因究明、その開放へ力を注ぎましたがm自分が個人的に背負っている問題を解決したいという形で発言、行動はしなかった。別のいいかたをすると、自分が抱えている問題を旗に掲げて、自分の問題だからこそその切実さを訴える権利とのうりょくがあるという提出のしかたはしなかった。自分の問題を抱えつつ、そのまなざしを同質の別の問題へ移行させ、移行させることによって、それぞれの個別の問題を個別の問題として囲い込まないレヴェルへ引き上げようとしたのです。
なにかの被害を蒙っている人(たち)がいて、自分はこういう被害を蒙っているのだ、みんなよく私たちを理解して苦しみから救いだしてほしい、私たちの苦しみを共有してほしいと訴え続けていくかぎり、いつかその問題が制度的に解決したとしても、その解決は、その問題の範囲内での解決にとどまり、そこから別の問題が浮上することは避けられない。被害を蒙っている当事者は、もちろんその苦しみでほかの世界へ目配りなんかしている余裕なぞないかもしれない、そのことをよく承知しつつも、自分の苦しみと同質の別の問題へ目を遣り、それらに通底する問題を取り出し、また別の問題へも目を遣って、それらの克服を目指していくとき、もっと大きな解決が可能なのではないか。
ミシェル・フーコーは、その思いを胸にひめて、精神障害や犯罪者とその処遇の仕方ーー医者のまなざしの変遷、病院、監獄の制度の歴史を研究していった、そしてそれがセクシュアリテの歴史へと展開していったのです。
・G アルベルト・ジャコメッティ
彼は、彫刻の問題を「美術」のという表現の問題として考えようとしていて、そのとき、絵画の領域で達成されたものと彫刻の世界でなされていることとの関係が、ジャコメッティにとっては、とても重要な問題になってきました。
絵画に置いて実現されていることが、彫刻においてはどうか、彫刻が抱えている問題は絵画ではどう解決できているか。こうした問いかけのなかから、ジャコメッティの仕事は展開していきます。俺は彫刻家だから絵画のことは知らないよ、という態度をジャコメッティはとても嫌ったのです。これ自体「世界の始まりに佇つ」ことです。彫刻とか絵画とかいったジャンルに分ける以前の美の営み、もっとも「美」とか「芸術」とかいう概念も構成の産物ですから、そういう概念がつくられ分類が始まる以前の人間の意識の働きへと立ち戻って、なにごとかを見、反応したいと考えていたのです。
刻まれた対象が「人間」あるいは人間と同型の神の像であるかぎり、人々はその像(人間像、神像)が置かれている「空間」と、その像が「対象」であることから発生している「空間」との関係についての問いを無視して平気でいられたのです。「人間」が「主体」であるということが疑いないものであるかぎり、その「空間」との関係は無視できた。ジャコメッティは、それが平気でいられなかったのです。
・M アナ・メンディエタ
いくつかのアナ・メンディエタの言葉を拾ってみます。
(中略)
Believe me, friends, imperialism is not a problem of extension, but reproduction.
(中略)
帝国主義が「複製の再生産」の問題にかかわっているということは、政治的には自分の文化制度を他国に再生産する(強制する)ということであり、それは美術の世界の問題として「複製」というもののありかたへかかわってくると言っているのも示唆的です。われわれはいまや美術のことを考えるとき「複製」を手立てにしか考えられない(複製である画集をみて、作品を鑑賞し、スライドやパワーポイントという複製で美術[史]を語り理解している)。複製を見て本物を理解了解する習性を完璧に身につけている。ひょっとするとわれわれはこうして無意識の裡に、帝国主義に」飼い慣らされた発想をしてしまっているのかもしれない、とアナは警告しています。フーコー風に言えば「複製」のありかたにひそんでいる権力のありかたに気づかねば、ということです。
美術作家の発言が、こんなふうに、その作家の仕事を理解する手がかりとして読めるだけでなく、「美術」の領域を超えた現代という時代を生きる人間の生きかたへかかわる問題として読めることのすごさに、ここで気づいておきたいのです。
現代の美術家にこんな人はもうほとんどいなくなりました。みんないろんな言葉を弄して、自分の作品の「説明を」するばかりです、ここ数年の展覧会をちょっと思い浮かべても、李禹煥といい杉本博司といい、なぜあんなに制作の意図だとか見かたとかを自分で説明するのでしょう。結局、作品だけ見てもらうには自身がないような作品しか作れなかったからかしら、とくすぐってみたくもなります。東山魁夷なんかもその最たる人で、自分の言葉で説明してやっと絵を見てもらえることを当然と考えているかのように言葉を費やしました。
作品だけを見て、よいか悪いか、その作品からどんなメッセージを受けとるか、見る人にまかせておけない、そういう不安が作家をとらえている。それが現代なのだということかもしれません。
優れた作品というのは、作者の制作にこめた意図もさることながら(それもちゃんとしていないと問題外ですが)、そうして出来上がった作品が、作者の意図していなかった発見も他者に与えられてこそ、すばらしいのです。作者の意図だけしか伝わらない作品は一度見たときはなるほどと感心できてもそれっきり、もうつまらない。見るたびに新しい発見があってこそすごいのです。
・V ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
「強者」に支配されない、「強者」の論理に左右されない「弱さ」のありかた、その論理を見つけだすこと。それがこれからのとても大切な課題です。「芸術」と呼ばれる世界は、これまでにもいちばんそのことに敏感で、多くの仕事を遺している世界なのに、まだそれを自立したものとしてみつける論理が手に入れられなかっただけ、ですから。
・W シモーヌ・ヴァイユ
シモーヌは「芸術」と「美」を同じものと考えていません。「芸術」は、作品として自らを形成し、いつも「有限」の姿かたちを纏っています。「美」はそういう「有限」な存在を貫いている「無限」なものです。ですから「美は、理想が現実のなかに受け継がれている一つの証言なのだ」(『哲学授業』)という言葉と「芸術は精神が自然に入り込むことができることを教える」という言葉のちがいを、きちんと受け止めておくことが大切です。
(中略)
「芸術」はだから、理想(無限)が現実(有限)に受け継がれ根を張った姿ではなく、そういう可能性を告げているものなのです。つまり、「芸術は待つこと」なのです。芸術というのは、待つという一つの行為なのであって、なにかをつくりあげた所産ではないという見かたがここにはあります。芸術は、それを制作する人とその制作品を見、読み、聴く人との関係のなかに生まれてくる、その意味での「待つ」です。
(中略)
一つの「空間」を占める作品は「待ち時間」としてわれわれに与えられている。「芸術」と呼ばれる現象は、一つの待ち時間をつくっているのです。なにを「待つ」のか。「理想が現実のなかに受け継がれる」のを知ることだとシモーヌは言うのですが、この抽象的な言葉から、われわれはそれぞれの作品の具体的な場面でこの言葉が導いてくれるものを、それこそ「待たなければ」ならないのです。
・Z 張彦遠
「作品のない美術史」というのは、作品を実見できないけれど、その作品について書かれた記述を読んで美術史を考えることです。書かれた文字から作品を想像復元することと言いなおしてもいい。これは、同時に、そういう見ることのできない作品が、ある時代のある人間によってどう語られているかを考えることにほかなりません。
われわれは、ついそのことを忘れていますが、眼に見える作品による美術史(現行の美術史です)を読みながら、じつはたいていの場合、見ることのできない作品について書かれた言説を読んでいるのと、ほとんど変わらない読みかたをしています。「見える」という安心感に支えられて、じつは、ほんとうは「見て」いない、「見る」ことができるということで、逆に「見る」ことを放棄し、怠けていることに気づかないでいるーーこれが、現代です。
一般に「芸術」と呼ばれる作品は、二種類の系に振り分けることができると思います。
A 類型的な概念化された表現をくりかえす方法から成る作品系
B 新鮮なイメージとメッセージを提起する作品系
(中略)
それぞれを大切に味わえばいいのですが、現代という時代は、AのくりかえしにとどまっているものをBぶって見せる仕事がはびこっています。そういう作品はしっかり見届けるとAが隠しもっているはずの「生命」はむしろ放り出しています。放り出しているからこそ、Bぶれるのです。逆にAの息のながさ、拡がりの大きさを借用してBぶっている仕事も多く(ポップアート以来顕著な現象ですが)、一見とてもオリジナルなのですが、Aがもっていた「生命」力は共有できない。この「生命」というのは、一種スピリチュアルなもので、かつてAとBがそんなに分裂していなかった時代(近代以前)は、それぞれの作品にスピリチュアルなものがあったと言ったほうがいいでしょう、つまり、「隠れた生命」もまた「スピリチュアルなもの」にほかならないのです。
エロシェンコの汎生命共同体主義は、個体の外形の相違を超えて共通するなにかを探ろうとして出てくるしそうです。この考え方は、彼が盲目であったことと関係があったのかどうか。
「盲目である」ことと「文学/芸術」との関係について、僕が考えられることをすこし考えておきたいと思います。
(中略)
視覚を奪われていない物、いいかえれば非盲目者が、絵を「見る」ように、文字(点字)で造られ積み上げられた、耳から紡ぎ上げ朗読されていく作品を「見ている」のではないか、一枚のキャンヴァスを見るように。キャンヴァス(タブロー)を見るように聴くあるいは触れて追う。触覚による(指で読みとる)方法は、時系列的想起によるイメージのつくりかたですが、触覚を通して残るのはつねにタブロー的なのではないか。その意味で「盲目である人の文学」は「触覚的タブロー」をつくっていると言えないか、ということなのです。エロシェンコの見えない眼の奥、網膜の彼方には、キャンヴァス/タブローのように作品が開いているーーそういう能力を彼はもっていた。それは文学を現代よりはるかに絵画的に読んでいたにちがいない近代以前の人々の絵画=絵巻とか壁画とかのありかたと共有するところの多い能力のような気がします。
・F ミシェル・フーコー
フーコーが同性愛を生きた人だというのは、誰もが知っていることですが、同性愛者であるということは、社会から排除される存在ということでした。
(中略)
しかし、彼の著述、後年の社会活動、デモや声明、被疎外者たちの手記への序文などみても、「同性愛者に保護と権利を!」などという活動はしていません。じつは、このことは、ミシェル・フーコーを考える場合、とても大切なことだと思います。
彼はつねに社会から排除された存在に関心をもち、その抑圧の歴史と原因究明、その開放へ力を注ぎましたがm自分が個人的に背負っている問題を解決したいという形で発言、行動はしなかった。別のいいかたをすると、自分が抱えている問題を旗に掲げて、自分の問題だからこそその切実さを訴える権利とのうりょくがあるという提出のしかたはしなかった。自分の問題を抱えつつ、そのまなざしを同質の別の問題へ移行させ、移行させることによって、それぞれの個別の問題を個別の問題として囲い込まないレヴェルへ引き上げようとしたのです。
なにかの被害を蒙っている人(たち)がいて、自分はこういう被害を蒙っているのだ、みんなよく私たちを理解して苦しみから救いだしてほしい、私たちの苦しみを共有してほしいと訴え続けていくかぎり、いつかその問題が制度的に解決したとしても、その解決は、その問題の範囲内での解決にとどまり、そこから別の問題が浮上することは避けられない。被害を蒙っている当事者は、もちろんその苦しみでほかの世界へ目配りなんかしている余裕なぞないかもしれない、そのことをよく承知しつつも、自分の苦しみと同質の別の問題へ目を遣り、それらに通底する問題を取り出し、また別の問題へも目を遣って、それらの克服を目指していくとき、もっと大きな解決が可能なのではないか。
ミシェル・フーコーは、その思いを胸にひめて、精神障害や犯罪者とその処遇の仕方ーー医者のまなざしの変遷、病院、監獄の制度の歴史を研究していった、そしてそれがセクシュアリテの歴史へと展開していったのです。
・G アルベルト・ジャコメッティ
彼は、彫刻の問題を「美術」のという表現の問題として考えようとしていて、そのとき、絵画の領域で達成されたものと彫刻の世界でなされていることとの関係が、ジャコメッティにとっては、とても重要な問題になってきました。
絵画に置いて実現されていることが、彫刻においてはどうか、彫刻が抱えている問題は絵画ではどう解決できているか。こうした問いかけのなかから、ジャコメッティの仕事は展開していきます。俺は彫刻家だから絵画のことは知らないよ、という態度をジャコメッティはとても嫌ったのです。これ自体「世界の始まりに佇つ」ことです。彫刻とか絵画とかいったジャンルに分ける以前の美の営み、もっとも「美」とか「芸術」とかいう概念も構成の産物ですから、そういう概念がつくられ分類が始まる以前の人間の意識の働きへと立ち戻って、なにごとかを見、反応したいと考えていたのです。
刻まれた対象が「人間」あるいは人間と同型の神の像であるかぎり、人々はその像(人間像、神像)が置かれている「空間」と、その像が「対象」であることから発生している「空間」との関係についての問いを無視して平気でいられたのです。「人間」が「主体」であるということが疑いないものであるかぎり、その「空間」との関係は無視できた。ジャコメッティは、それが平気でいられなかったのです。
・M アナ・メンディエタ
いくつかのアナ・メンディエタの言葉を拾ってみます。
(中略)
Believe me, friends, imperialism is not a problem of extension, but reproduction.
(中略)
帝国主義が「複製の再生産」の問題にかかわっているということは、政治的には自分の文化制度を他国に再生産する(強制する)ということであり、それは美術の世界の問題として「複製」というもののありかたへかかわってくると言っているのも示唆的です。われわれはいまや美術のことを考えるとき「複製」を手立てにしか考えられない(複製である画集をみて、作品を鑑賞し、スライドやパワーポイントという複製で美術[史]を語り理解している)。複製を見て本物を理解了解する習性を完璧に身につけている。ひょっとするとわれわれはこうして無意識の裡に、帝国主義に」飼い慣らされた発想をしてしまっているのかもしれない、とアナは警告しています。フーコー風に言えば「複製」のありかたにひそんでいる権力のありかたに気づかねば、ということです。
美術作家の発言が、こんなふうに、その作家の仕事を理解する手がかりとして読めるだけでなく、「美術」の領域を超えた現代という時代を生きる人間の生きかたへかかわる問題として読めることのすごさに、ここで気づいておきたいのです。
現代の美術家にこんな人はもうほとんどいなくなりました。みんないろんな言葉を弄して、自分の作品の「説明を」するばかりです、ここ数年の展覧会をちょっと思い浮かべても、李禹煥といい杉本博司といい、なぜあんなに制作の意図だとか見かたとかを自分で説明するのでしょう。結局、作品だけ見てもらうには自身がないような作品しか作れなかったからかしら、とくすぐってみたくもなります。東山魁夷なんかもその最たる人で、自分の言葉で説明してやっと絵を見てもらえることを当然と考えているかのように言葉を費やしました。
作品だけを見て、よいか悪いか、その作品からどんなメッセージを受けとるか、見る人にまかせておけない、そういう不安が作家をとらえている。それが現代なのだということかもしれません。
優れた作品というのは、作者の制作にこめた意図もさることながら(それもちゃんとしていないと問題外ですが)、そうして出来上がった作品が、作者の意図していなかった発見も他者に与えられてこそ、すばらしいのです。作者の意図だけしか伝わらない作品は一度見たときはなるほどと感心できてもそれっきり、もうつまらない。見るたびに新しい発見があってこそすごいのです。
・V ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
「強者」に支配されない、「強者」の論理に左右されない「弱さ」のありかた、その論理を見つけだすこと。それがこれからのとても大切な課題です。「芸術」と呼ばれる世界は、これまでにもいちばんそのことに敏感で、多くの仕事を遺している世界なのに、まだそれを自立したものとしてみつける論理が手に入れられなかっただけ、ですから。
・W シモーヌ・ヴァイユ
シモーヌは「芸術」と「美」を同じものと考えていません。「芸術」は、作品として自らを形成し、いつも「有限」の姿かたちを纏っています。「美」はそういう「有限」な存在を貫いている「無限」なものです。ですから「美は、理想が現実のなかに受け継がれている一つの証言なのだ」(『哲学授業』)という言葉と「芸術は精神が自然に入り込むことができることを教える」という言葉のちがいを、きちんと受け止めておくことが大切です。
(中略)
「芸術」はだから、理想(無限)が現実(有限)に受け継がれ根を張った姿ではなく、そういう可能性を告げているものなのです。つまり、「芸術は待つこと」なのです。芸術というのは、待つという一つの行為なのであって、なにかをつくりあげた所産ではないという見かたがここにはあります。芸術は、それを制作する人とその制作品を見、読み、聴く人との関係のなかに生まれてくる、その意味での「待つ」です。
(中略)
一つの「空間」を占める作品は「待ち時間」としてわれわれに与えられている。「芸術」と呼ばれる現象は、一つの待ち時間をつくっているのです。なにを「待つ」のか。「理想が現実のなかに受け継がれる」のを知ることだとシモーヌは言うのですが、この抽象的な言葉から、われわれはそれぞれの作品の具体的な場面でこの言葉が導いてくれるものを、それこそ「待たなければ」ならないのです。
・Z 張彦遠
「作品のない美術史」というのは、作品を実見できないけれど、その作品について書かれた記述を読んで美術史を考えることです。書かれた文字から作品を想像復元することと言いなおしてもいい。これは、同時に、そういう見ることのできない作品が、ある時代のある人間によってどう語られているかを考えることにほかなりません。
われわれは、ついそのことを忘れていますが、眼に見える作品による美術史(現行の美術史です)を読みながら、じつはたいていの場合、見ることのできない作品について書かれた言説を読んでいるのと、ほとんど変わらない読みかたをしています。「見える」という安心感に支えられて、じつは、ほんとうは「見て」いない、「見る」ことができるということで、逆に「見る」ことを放棄し、怠けていることに気づかないでいるーーこれが、現代です。
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