「確かなこと」:河瀬直美

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この日は映画作家で今回の審査員である河瀬直美さんとトーク。
なのに京都はこの冬一番の雪。
そんな中でもたくさんの人々にお集まりいただけた。
遠くからの友人も見に来てくれて本当に感謝。
特に母と祖母には息子/孫の晴れ舞台。うまくやらなければ。
トークではいろんなことを話したがうまく覚えていない。
ただ、妙に落ち着いて話ができて、終わった後はすごくすっきりした。
最後のパーティーの酒はうまかったなー。

今回の展示は公募展で、いくつかのプランの中から僕と寺島みどりさんが選ばれ、京都芸術センターのギャラリー北と南をそれぞれ使うことになる。僕は南。
この公募展は毎年関西在住の様々なクリエーターの方に審査を依頼し、若い作家に発表の機会を与えるというもので、今年は審査員に河瀬直美さんを迎えた。
応募の際、実は河瀬さんの作品は一度も見たことがなかった。
ただ名前だけは友達が好きな映画監督だったので知っていた。
今回のコンペに出そうと思ったきっかけは河瀬さんの審査に臨むに当たってのステートメントだった。
以下そのステートメントである。

表現というもののスケールが最近のそれを見ているとこじんまりしてきている印象を受ける。おそらく様々な情報が氾濫する中で知識だけは増えていて知恵をしぼる経験が減っているのではないかと推測する。一昔前は何かひとつの物事の真を知るために自分の足で歩いてそれに近づいてゆくということを普通にやっていたが、最近はインターネットでその物事のだいたいの大枠はわかってしまえる。しかし、表現というのは、自分の体験を通したまなざしが加わって誰にも真似することの出来ない世界で唯一のものにならなければいけないし、そういう意味ではスケールの普遍性をおびたものであってほしい。今回の公募ではそれらの点で優れたものを期待している。

これはまさに僕が最近の表現に対して思っていたことであった。
僕は表現にはスケールこそが絶対不可欠だと信じている。
スケールというのは前にも書いたが単純な大きさのことではない。
ステートメントの中にも登場しているが、それは普遍性ということである。
如何にその人の宇宙観が内包されているかが表現の魅力だと思う。
僕は正直最近の表現にはフラストレーションがたまっている。
音楽は数ヶ月前のヒットソングがどこぞの新人歌手にカバーされ、話題の映画は決まって主人公の恋人が死んでしまうパターンの焼きまわし。ファッションはその安さだけがピックアップされデザインはないがしろ。すべてが一過性のエンターテイメント。そこには普遍性のかけらもないし、そもそも表現者としての誇りが完全に失われている。
消費者も消費者で、このままでは右脳の皺がなくなってしまうんじゃないだろうか。

そしてアートにおいては「日常」という言葉が氾濫し、手に届く範囲のものをアートの記号に当てはめただけのものになってしまっている。なんだかコタツに入ったまま生活のすべてをその範囲内で納めている感じに似ている。それはもはや怠惰としか言いようがない。
本来手に届く範囲というものは自分で思っているよりも広いものである。だって足があるんだもの。足を動かせば自ずと手もついてくるというもの。その足を動かす作業が最近のアートには欠けているんじゃないかと感じる。

河瀬さんの映画の話。
河瀬さんはリアリティを映画の中で執拗に追求する。
舞台を彼女の故郷奈良に絞り、素人の役者を使い、台本はなし。
役者の演技はほとんど役者のアドリブによって構成される。
演技の臨界を軽く凌駕する河瀬映画を観てると、自分が何を観てるのかわからなくなってくる。
普段映画を観ている時って、自分の中で自動的に「映画を観るモード」に切り替えて観てるんやけど、河瀬映画ではそのスイッチがうまく発動しないのである。
それは映画の創世記を想起させる。動く映像の登場は人々を驚かせ、汽車がこちらに迫ってくる映像では観客は本当にこちらにやってくるんじゃないかと恐れ逃げ回った。それに近い感覚を21世紀に入って味あわせてくれるのが河瀬映画の魅力だ。

僕は必ずと言っていいほど彼女の作品に泣かされる。
今のところ4戦3敗。
1勝は「殯の森」。
これはすごく映画映画していた映画だったと思う。
結果的にこの作品でカンヌのグランプリを勝ち取るのだけれど僕はあまり好きじゃない。
映像は確かに美しいし、内容も興味深いのだけれど、「萌の朱雀」で見せてくれた「何を見てるのかわからなくなる感覚」はなく、純粋に映画を観てるというスイッチを切り替えることができてしまった。
その次の「七夜待」では、長谷川京子を主人公に舞台を奈良からタイにまで移し撮影されたもので、これは原点回帰と実験を兼ね備えた作品だったように思う。
長谷川京子とタイ人とフランス人の会話は多分実際に本人同士伝わってないのだと思う。その中で演技していくのだけれど、自ずと演技という鎧が外れてすごい作品になっている。
タイ人のおばさんが長谷川京子に「あなたの国はどんなとこ?」と聞かれ涙するシーンがあるのだけれど、あの涙は確実に演技じゃないと思う。ストーリーの上で全く必要ない涙だったから。それでも涙を流した理由は彼女の生の感情なんだと思う。そこで、僕も泣いてしまった。
河瀬作品で流す涙は他の映画では味わえない涙だ。
とりあえず自分がなんで泣いてるのかがわからない。そんな涙。
先日観た「沙羅双樹」も泣いた。
僕はこの作品が一番好きだ。一番バランスが取れてると思う。
「萌の朱雀」ではやはり唯一のプロの俳優國村隼が浮いてる感があったけど、この映画の生瀬さんと樋口さんはうまい具合に溶け込んでた。
そして、主人公の彼はヒロインの彼女にホントに恋をしてしまってたと思う。
そのリアリティに僕は涙が止まらなかった。

河瀬さんの映画を観ていると、表現を残すことの意義や責任というものを学ばせてくれる。
表現はあくまでフィクションであり、まがいものである。
だからこそ時に現実をより鮮明に見せるフィルターにもなりうる。
私たちは普段からものを見ているが、それは見えているのであって、意識的にすべてのものを見つめているのではない。
その現実が如何に貴重なものであるのか、私たちは忘れながら生活している。
それを改めて問いかけてくれるのが真の表現だと思う。
河瀬さんの映画を観ていると如何に現実世界が美しいものかを思い知らせてくれる。
巷にあふれる一過性の表現からは得られない何かがそこには確実にある。
僕もそういう作品を作りたいと思う。

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