ウィリアム・ケントリッジ@京都近代美術館

京都近美で始まったケントリッジの個展の初日に行って参りました!
昨年末のエモーショナル・ドローイング展の際の常設展示室で唐突に知らされた展覧会。あれから9ヶ月。待ちに待ったケントリッジ展です。
ケントリッジは僕が好きな数少ない映像作家。
映像作家で好きなのはあとビル・ヴィオラとかぐらいやもんな。
さて、展覧会。
会場に入る前に挨拶文があり、その横にさっそく短い短編作品が。
実写とアニメーションを組み合わせた作品で、ちょっとイメージが違う感じ。
最後人が真っ黒になるのがよかった。
会場入ってすぐはケントリッジの初期の版画作品等。
今よりもっとはっきりした絵で、これはこれで魅力的。
でもやはり、木炭で描かれたアニメーションの原画は感動的。
何度も消したり描いたりした跡とか残ってたりして。
そしてこの展覧会の目玉の1つ、「プロジェクションのための9つのドローイング」が全て見れるアーカイブルーム!!
1989年の「ヨハネスブルグ、パリの次に素晴らしい都市」を皮切りに、2003年の最新作「潮見表」まで、ケントリッジを有名にした代表作の連作。
これが大部屋でデデンと一気に流されてる様は大迫力。
部屋の前でイヤフォンが渡され、スイッチで映像の番号に合わせてそれぞれの作品を見るという感じ。
この部屋のいいところは、観客が各々好きな映像選んで、好きな場所に座りながら、あるいは寝転がりながら、ケントリッジの作品を鑑賞する様子。
堅い床がかなりしんどいのがネック・・・。
美術館側もクッションとか絨毯とか用意してくれたらええのに・・・。
でも確かにそんなんしたら寝入ってしまう可能性もあるけど・・・。
実際何度も眠りかけました。
だって、1つ1つ最初から最後まで見ようと思ったら1時間近くかかりますからね。
まあ、僕は全部見ましたよ。さすがに疲れましたが。。。
映像作品ってこの拘束時間がネックなんですよね・・・。
観客が鑑賞時間を決められないっていう。
でもケントリッジの映像はいつまで見てても苦にならないのが不思議。
内容はめちゃくちゃ重いんですが笑
母国南アフリカの歴史、主に初期はアパルトヘイトなんかを扱ってたりしてて、暴力やセックスといった穏やかじゃない主題がバンバン現れるんですが、なんか見れるんですよね。
やはり手書きの暖かさが鑑賞を助けてるんでしょうか。
僕が初めてケントリッジの作品を見たのは、2004年の豊田市美で行われた「IN BED」というグループ展に出品されてた、この9つの作品のひとつでもある「重大な傷/病の歴史について」(1996)で、すごく心に残って以来ケントリッジのファンです。
といってもそんなに見る機会もなく、森美の「アフリカ・リミックス」とかでしか以降も見てなかったので、これだけまとめて見られるのは贅沢の極みです。
1時間かけて9つ全て見終わったらまたドローイングの部屋。
「薬棚」という作品では薬棚に模した液晶にドローイングアニメが映し出されてておもしろかったです。
さて、この後半が今回僕のケントリッジ観をがらりと変えてしまいました。
これまで日本で紹介されてきたケントリッジ作品というのはやはり、上記の「プロジェクションのための9つのドローイング」がメインで、近年の活動に関してイマイチ紹介されてなかった感があります。
今回この後半は彼の近年の活動を網羅するような内容。
まず「影」という要素。
アフリカに伝わる伝統的な影絵の手法や、プラトンの影のお話。
影はすべてのもののディテールが消失し、よりイメージ純化した姿。
イメージの本質というケントリッジなりの追求の跡が見られる影絵作品。
なんだか影絵になると、ケントリッジ作品に漂う哀愁がさらに強まってる気がする。
もうなんだかすごく悲しくて、流れてる音楽はとても明るい曲なんやけど、なんだか泣けてきそうになっちゃいました。
そして、さらに像そのものの成り立ちに行き着きます。
鏡が背中合わせに設置されて、両方の壁にはカンナの木炭デッサン。
鏡越しに見るとどう見たって1枚の絵。
でも現実には2枚存在している。
微妙にズラされて描かれた2枚のカンナは鏡を通すことで1枚になる。
これはちょっと言葉では説明しずらいなー。見てください。
その隣にも同じような作品。こちらは卓上の様々なモチーフ。
それからステレオスコープといって、2つのレンズを通して見ると平面が立体に見えるという仕掛けのドローイングも置いてあったり、上の階になるけど、ランタン(幻灯)をヒントに制作された「やがて来るもの(それはすでに来た)」(2007)は、昨年の常設で見た作品やけど、これも円筒に映ることで正像になるという作品で、「ものの見え方」をラディカルに追求しているケントリッジの姿勢が感じられます。
また、この展覧会でも重要な作品「ジョルジュ・メリエスに捧げる7つの断片、疑似夜景(アメリカの夜)、月世界旅行」(2003)では、ジョルジュ・メリエスという、映画史のパイオニアへのオマージュで、もはや映画という人類史もケントリッジにとってはモチーフになっていて、スタジオ内で様々な実験が繰り広げられる様を7台のプロジェクターで同時に流しています。
そして今回彼自身がわざわざ来日して繰り広げられる「俺は俺ではない、あの馬も俺のではない」。
京都会館を借り切っての定員700名のパフォーマンス。
僕はこれが見たくて初日にやってきたのだ。
の、はずなんやけど、途中何度かこっくりこっくり。
ひたすらケントリッジが喋り倒してるっていうすごい作品。
そもそもこれは来年から始まるオペラ「鼻」のために制作されたもので、原作はロシアのニコライ・ゴーゴリの同題の短編小説。
まずこの原作の内容から話し始めたかと思うと、当時のソ連の裁判記録を読み上げたり、作家本人の葛藤を吐露したりと現実と虚構をいったりきたりするパフォーマンス。
バックに様々な映像が流れるが、やはり本人が凄まじすぎる。
ついにケントリッジ自身が作品になってしまった!!
なんだかどこまでいっちゃうんやろ、と末恐ろしくなっちゃいました。
ここまでラディカルな作家だったとは。凄いです。
こんなに広い視野で仕事をしてる作家といえば杉本博司を思い浮かべるけど、まさにケントリッジはそんな作家だ。杉本さんも近年では写真史を追いかけていて、タルボットへのオマージュを捧げたりしてますからね。
この展覧会は構想から10年ほどかかった企画らしい。
その10年の間にケントリッジの作品の進み方を考えると、企画は大変なものだったに違いないと思う。
ある程度表現が安定した作家だと、回顧展という形である程度整理して展覧会作りができようもんだけど、ケントリッジの場合、この歩みの速度は、もはや回顧展にはできず、途中で切ってしまうしかない。
当初企画側も、あの「プロジェクションのためのー」を中心に据えればなんとかなるんじゃないかと考えたんじゃないかなぁ。僕だってイメージのケントリッジはやはりあの木炭アニメーションだったし。それでもそこに安住することなく進み続けるケントリッジはかっこいい。
これは決して回顧展ではない。
まだまだ途中段階を見せてる風でしかないので、これからどこに進むのか楽しみで仕方ない。
そんな大いなる余韻を残した展覧会。
なんだかすごいものを目撃してしまった気がする。
京都近美での展示は10月18日まで。
その後東京近美(1月2日~2月14日)、広島現美(3月13日~5月9日)に巡回。
でも日本で最初に京都で見れたのは関西在住者として優越感が半端ないですy
なんだかまとまりのなさすぎる文章・・・ちょっとまだまだまとまりそうにないです。
とりあえず図録見ながら勉強。2000円でこの太さはすごい。
内容もボリューム満点でこれは買いです。あー本棚が・・・。

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