「垂乳女」 by 河瀬直美



Lumen Galleryで開催された河瀬直美映像個展に行ってきました。
Lumenは昨年に知人が始めた映像のギャラリーで、行きたいと思いつつ、めぼしい展覧会がないか待ってたらなんと河瀬直美のドキュメンタリー作品が一気に見られるというまたとない機会がやってきました。
会期二週間で今ある25作品全てを上映するという凄まじいプログラムです。
さすがに全ては観られませんでしたが会期中4回(1回は機材トラブルで観られず。。。)京都まで通いました。

まず最初に観たのは、学生時代からの初期作品を流すAプログラム。
彼女が映像という媒体に出会って、カメラを回すことが楽しくて仕方ないという新鮮なフィルムたち。
もちろん内容は「河瀬さんにもこんな時期があったのか」と思うほど荒いですがみずみずしいです。
というかここまで初期のものは今後観られる機会はほぼないかもしれません。貴重でした。

次に観たのが「影」と「垂乳女」を含むHプログラム。
特に後者の「垂乳女」はDVDにもなっておらず、いつか必ず観たいと熱望していたので嬉しかった。
「影」は自分と父親の理想の関係をなぞるような仮想劇で、Aプログラムにあった「パパのアイスクリーム」同様、気持ち悪いぐらい甘い父との関係に観ていて居心地が悪かったです。
そして念願の「垂乳女」は期待を遥かに上回るパンチのある映画。これは河瀬作品の中でも河瀬節が最も炸裂していると言っても言い過ぎではないでしょう。
冒頭から養母である宇多宇乃ばあちゃんの入浴シーンからで、老婆の裸を執拗に収めています。
そこには養母の刻んできた様々な年輪が映像に焼き付いていて、彼女の人生を見事に映し出しています。
石内都の大野一雄を撮った写真を思い出しました。
そして、河瀬さんの狂気を感じるまでの、宇乃さんに浴びせる罵倒も印象的。顔をしかめてしまうほど生々しい会話に胸がえぐられます。
次のシーンでは養母との仲直りがあってほっと心を撫で下ろすほんわかなシーンが。
「直美ちゃんはおばあちゃんのこと好いてくれてる?」
「直美が可愛くて仕方ない」
といった宇乃さんの台詞から、河瀬さんに対する深い愛情がこれでもかというほど映像から溢れ出ます。
それから、河瀬さんが心から欲しがっていた新しい家族、息子の出産シーン。
このシーンはこの映画の中で最も有名なシーンで、出産直後にいきなり「カメラ貸して!」と叫んで、自分でカメラを回し始める河瀬さんは本当に壮絶。
出産という営みが、生々しく映し出されていて、最後には息子と自分を結んでいた胎盤の一部を食べるという狂気的なシーンもあります。
映画の最初に赤い血に包まれた肉塊が映されてますが、これは胎盤だったんですね。
宇乃さんと赤ん坊が一緒に寝ているシーンは、河瀬さんがこの世界で最も大事なものが一つの画面に収まっているようで、本当に美しかった。
この映画はこの後「沙羅双樹」、「玄牝」へと繋がっていきます。

最後に「垂乳女」の続編と言える「塵」と韓国で上映され、日本初公開となる「AMAMI」を含むJプログラム。
「塵」はついに彼女を育ててくれた宇乃さんとの別れを綴る作品。
老衰が始まり、老人ホームに移され、日に日に弱っていく養母の日々が描かれます。
ここの老人ホームの感覚は、カンヌでグランプリをとった「殯の森」に繋がっていきます。
僕自身も、両親が共働きだったために幼い頃はほぼ祖母といる時間が長かったので、未だに両親より祖母の方が身近に感じてる大のおばあちゃん子なので、この映画は身を切られるほど観ているのが辛かった。
体の水分が全部出てしまいそうなほど泣きました。
が、作品としてはやはり「垂乳女」の方が圧倒的に強いです。
色んなことが整理できてない印象を受けました。もちろん彼女の本当に大事なものが永遠に失われる内容なので、整理なんてできるはずがないのだけれど、その混乱が作品にそのまま反映されてたように思えます。
そして、ずっと撮り続けていた養母亡き後に取られた「AMAMI」。
彼女のルーツである奄美大島に息子を連れてそのルーツを探るという内容。
この映画がショックを受けるぐらい弱かった。これまで観客を鷲掴みにして、半ば無理矢理自身の物語に道連れにしてきたあの強さがこの映画からは全くと言っていいほど感じられず、観ながらどうして自分はこの人の個人的事情に付き合わされてるんだろうという冷めた気分にまでなってしまいました。。。

今回いくつか彼女の原点でもあるドキュメンタリーを観て感じたのは、彼女の圧倒的な力を発揮できるゾーンが、彼女の半径1m以内だということです。
彼女にとって、カメラが肉化していて、「垂乳女」の出産のシーンに顕著なように、どんな時もカメラが彼女の目になっています。
そのため、彼女の目の届く半径にあるものを彼女に撮らせた時に、それがどんなに些細なものであっても、どんなに個人的なものであっても、圧倒的な力を持って観客の心を掴み、深く爪痕を刻むことができます。
彼女ほどカメラが自身の肉の一部になってる人は世界を探してもそういないと思います。
この力こそ、彼女を世界のトップに押し上げた原点だと強く思います。
しかし、そのゾーンを一歩でも出た時に彼女の力は驚くほど弱まります。
「AMAMI」を観ていて思ったのがそれです。
彼女の育った地元でもなく、会ったこともない祖先にカメラを向けた時、そこには何も映っていませんでした。
奄美大島で撮った「二つ目の窓」を観た時、正直河瀬さんがこの映画を撮る意味ってあるのかな?とさえ思いました。
「二つ目の窓」では、島を襲う嵐や、雄大な自然が映し出されます。
しかし、奈良で撮った蝶々の舞う姿や木がサラサラと揺れる様、太陽がキラキラ水面に映る映像に、この雄大な自然の映像は勝つことができません。
この感じはジャンルは違いますが宇多田ヒカルに似ているなと思います。
彼女がここまで人々の心を掴む歌が歌えるのは、彼女が自身の身を歌に刻み込んでるからだと思います。
ここまでボロボロになりながら歌う必要があるのかと思うぐらい痛々しい歌たち。
特に人間活動を経てかえってきて発表した「花束を君に」と「真夏の通り雨」は、自死という悲しすぎる結末を選んだ母親に対するレクイエムで、痛々しいほどの世界観で聴き手の心を震わせます。
話は逸れましたが、それゆえに宇多田ヒカルの「桜流し」を河瀬さんが撮った時には、あまりの共鳴に驚きました。
河瀬さんには彼女のゾーンをさらに研ぎ澄ませた先の世界を見せて欲しいなと個人的には思います。
今後どんな作品で世界をノックアウトするのか、楽しみにしています。
そして「垂乳女」と「玄牝」を是非DVDにして欲しい。。。

あと、今回の河瀬さんの映画や、前回の田中さんの展覧会を観て考えたのは、直接的な表現の持つ強さと弱さのことでした。
河瀬さんの「垂乳女」はこれでもかというぐらい直接的で、それは観客の心をまっすぐに突き刺す鋭さがあるのだけれど、その突き刺す角度が少しでもずれた時に簡単に折れてしまう諸刃の剣なんだなと思いました。
それは田中さんも同じで、彼の場合はそれまで隠喩的な方法論で作っていたものを、直接的な表現に変換してしまったことでズレてしまった感があって、水戸の展覧会に出ていた複数の人達がピアノを弾いたりする過去の作品はやはり何度観ても力があると思います。
この隠喩力っていうのが改めて鍵で、この力を最大に発揮してるのがフェリックス・ゴンザレス=トレスだと個人的に思います。
彼の場合、本当にどうしようもないぐらい個人的な問題を、圧倒的なセンスで隠喩的に表現して、誰にでも共感できる普遍的なものへと還元する力があります。
彼の作品は一見何でもないんだけど、時間をかけて確実に染み渡る感覚があります。
そういうものが作れたら本当に幸せだろうなぁと改めて考えさせられました。

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マレビトの会「長崎を上演する」 @愛知県芸術劇場



マレビトの会を観に名古屋まで。
安い宿が取れなかったからって18きっぷで2回往復するという暴挙をやってしまった。さすがに2日目は頭痛。

それはともかくマレビトの会。
彼らは以前は京都を本拠地として活動していた劇団で、現在は東京(栃木?)が本拠地。
まだ彼らが京都にいた頃に知って、2010年に始まったKYOTO EXPERIMENTでもやってたんだけど、なぜか見逃したまま、気になりつつも一度も観たことがないまま今に至っていて、今回愛知でやると知って観に行った次第です。

彼らはその京都にいた頃から、都市をテーマに作品を作っていて、特に被爆した都市広島と長崎をテーマにして作品を作ってきました。
さらに2011年の原発事故を受けてそのテーマに福島も加わり、2013年にはF/Tで「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」という舞台を上演します。
そしてさらに3年が経ち、昨夏「長崎を上演する」を初上演。
この舞台の面白いところは、幾つもの断章があって、それぞれに脚本を書いてる人が違うという点。
普通ひとつの劇団には代表するコレオグラファーがいて(地点だったら三浦さん)、彼を軸に回っていくんだけど、その軸をあえてブラして、それを一つにまとめていくというのがマレビトの会の特徴なのかも。もちろん代表に松田さんという方はいらっしゃるんだけど、彼が全ての軸ではないというのがなんとも不思議。
そして、舞台が何日にも及ぶというのもまた面白いです。
今年の初めに「ハッピーアワー」という映画について書きましたが、あれも何日かに分けて、一旦家に持ち帰ることで、映画館だけでは完結しない何かがあったんだけど、今回もそうでした。
しかも今回は遠方だし、電車の往復の中でも色々考えられました。

舞台はタイトルにもある通り長崎。
しかし、いわゆる被爆都市としての「ナガサキ」ではなく、現実の長崎。
もちろん原爆のことや戦争のことに触れるものもあるけれど、ほとんど関係ない物語が大半。
その物語が19にも分かれていて、しかもその物語の間と間はシームレスにつながってるので、前の物語が終わらないうちに次の物語が始まってるような展開は新鮮でした。
そして何と言っても舞台にセットらしきセットがないのが本当に異様。
あるのはパイプ椅子4つとあとはたまに出てくる箱ぐらい。
演者はパントマイムのように、ドアを開けたりコップを拭いたり物を避けたりする。
さらには、衣装まで物語内の設定とは違ったりするので、Tシャツの設定なのに目の前の演者はワンピース着てたり、観てる側も想像力をフルに働かしてみる必要がある。

この能動的な観客というのは、もちろん面白い主題だと思うけれど、これも前回の記事のMOTアニュアルのような、演劇内のドメスティックさに僕らまで付き合わさせられてるような感覚もあって、うーんと思うところもあった。
とはいえ、今回だけではなんとも言えず、やはり気になるので11月に東京でやるらしい「福島を上演する」を観てみることにしようと思います。

田中功起 「共にいることの可能性、その試み」 @水戸芸術館

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もう半月以上前になっちゃいましたが東京に行ってきました。
いくつか観てきたのですが、特に「関係性の美学」以降の作家の展示を3つ立て続けに観ました。

まずは水戸芸術館で開催されてる田中功起展。
2013年のヴェニスビエンナーレ日本館の個展で特別表彰を受けて以来初の日本の美術館での大型個展。
それだけにある程度の期待はしていましたが、正直モヤモヤの残る内容でした。
展示空間を、ただの場にしていたインスタレーションとしてみれば相当クオリティが高かったと思います。
しかし内容は、6日間のワークショップの記録を並べたもので、そこで「共同体は可能か」と言った内容が吟味されるのだけれど、あまりに欺瞞的というか、最終的にこの結果は明らかにエラーを起こすことを予期して作られてるように見えて、とても居心地が悪かったです。
あの日本館での美しい調和は完全に失われていました。
今回のテーマは深く震災に根付いています。
これまで裏方だった作家本人も積極的に映像に参加しているしインタビューまで受けてる。
こういう直接的な態度を展覧会で見せることにどういった意味があるんだろうと思ってしまいました。
日本館では、直接関係ないけど、震災にゆるく結びついているという、その関係がとても心に染み渡るようだったんだけど、今回は押し付けがましさすら感じてしまいました。
これから田中さんはこういう方向に作品をシフトしてしまうんだとしたら非常に残念です。
それとも今回直接2011年に被災した水戸芸術館での展示ということでそうしたのでしょうか。
ちょっと腑に落ちない展示でした。
とはいえ貴重な機会なので水戸は遠いけど足を伸ばしてあの場を体験してみるのはいいことだと思います。5月15日まで。こちら


あと、東京都現代美術館でのArtists' Guildを迎えたMOTアニュアル「キセイノセイキ」もまた腑に落ちない展覧会でした。
これも前述の田中さんも出してた2012年のMOTアニュアルが良すぎただけに、どうしても比べてしまう展示ですね。
美術館批判とも取れる内容を美術館でやってるだけに、説得力がないしあまりにドメスティック。
風桶の時は、各作家の作品同士がうまく手を結び合ってる印象があったんだけど、今回のは全然その感覚がなかった。
すんごい大まかな傾向のものを同じフォルダーにとりあえず詰めちゃった感じ。
同時にピクサー展やってたけど、そっちから流れてきたお客さん相当引くんだろうなぁと。。。5月29日まで。


もひとつオペラシティでやってたサイモン・フジワラ展もひどかった。。。
田中さん同様空間の使い方は抜群にうまくて、ひとつの展示空間に様々な物質が置かれてる様は爽快。
ただ、作品として、過去の作品のダイジェストみたいな感じで、ウェブサイトの作品紹介をマウスでクリックしながらスラスラ見ていくような感じで、現実の展覧会としてのダイナミックさは皆無。
彼のルーツの断片でもある日本での初の大きな個展なのに、なんでこうなったのか残念。。。
今度はがっつり新作で大きな個展を観てみたいです。こちらは既に終了済み。


これらの展示があんまりだったのは、僕の興味がここ数年でまた変異したせいもあると思います。
震災以降特に作家自ら、作家であること、作品を作ることという、根源的な問いを改めて突き詰めて、これまで自明と思われてきた制度に改めて真っ向勝負を挑んていくような、田中さんを始めとする作家の姿に心動かされた時期もありましたが、あれから5年が経過して、揺り戻しで純粋に美しいと思えるものを観てみたいという欲求が出てきたように思います。
あの日本館の展示をピークにして、作家たちの自意識的な展示を観ても感想が出てこない自分がいます。
最近発売になった「地域アート」の本も読んでみましたが、これまたドメスティックすぎて、全然内容が入らず。というか、この本の主題である「地域アート」の源流を築いたとも言える北川フラムさんが参加してない時点でこれを本にまでする価値があるのかっていう内容。ただただファミレスかどっかで作家たちが内輪であーだこーだ言ってるだけに思えて辟易しました。


その点で今回最も良かったのは自分でも意外な横浜美術館での村上隆コレクション展
森美での自身の展覧会がひどかったのでどうだろうと思いつつ友人に勧められて横浜へ。
結果的に、この美術館で観た展示の中で一番良かったと言えるぐらい良かった。
やはり作家だけあって展示の仕方が本当にうまくて唸りました。
あのどうしようもない入り口の大空間も、キーファーや李禹煥等のインスタレーションでビシッと決まってたし、何よりあの膨大な作品たちをほとんどストレスもなく観られたのは本当に奇跡。
普段より壁にかかってる平面も多いし、作品と作品の隙間だって本当に狭いのに不思議と干渉していない。
やはり村上さんはディレクション力がすごいんだと改めて思いました。
そしてコレクションの内容も凄すぎた。。。
でも、なんかすごいコレクションに愛情を感じたし、見せびらかされてる感じが全然なかった。
これは杉本博司とは全く違うところですね。
杉本さんのコレクションは、あくまで自分の趣味の良さと、それらを自身の作品の正当化に結びつける口実に見えてしまう部分があるんだけど、村上コレクション展では、自身の作品が一切展示されてないし、え、こんなんも持ってるの?っていう村上隆のイメージとは全く違うものが幾つかあって面白かったですね。
小泉明朗さんやミカ・ロッテンバーグの作品を持ってるのは意外だったなー。キーファーもね。
帰りのショップで思わず展覧会に出ていた尾形アツシさんの飯茶碗を買ってしまった。
とても気持ち良い展覧会でした。こちらも既に終了済み。


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