On Kawara '1966' @ Museum Dhondt-Dhaenens

昨年その生涯を閉じた河原温。
彼の業績を讃えるようにNYのグッゲンハイムで現在展覧会が開催中です。こちら。
こういう大規模な展覧会は大体3,4年前から準備されてるものですが、まるで死期を悟っていたかのように、彼の死後から1年も明けないままスタートするなんて。
それにしても、あの螺旋の展示廊下がこれほどフィットする展覧会が今まであったでしょうか。
まるでこの展覧会をするためにライトがデザインしたような気すらします。
きっとあの建物で開催された展覧会の中でベストな展示なのは間違いない。
それを象徴するように「Silence」と題された最後には渦巻きのマークが。
螺旋を登りながら時を駆け、また下りながら時を遡る。
きっとすごい観覧体験が待っているんでしょう。
豊田市美術館の学芸員の能勢さんのリポートを読むだけでヤバい。
(ちなみに昔豊田市美術館で開催された「意識、瞑想、丘の上の目撃者」という河原温の個展は僕のアート観覧歴の中でもかなり上位に入る素晴らしい展示でした。)
行きたい…でもさすがにNYまでは行けない…そんな悔しい思いをしていたら、ベルギーでも彼の展覧会をするという情報が!これは行かずにはいられません。
この情報をもたらしてくれたのは、ベルギー在住の作家奥村雄樹さん。
奥村さんは以前、山辺冷のペンネームで河原さんに関するテキストも書いていたり、なんとそれが縁で河原さん本人にお会いしていたりと中々稀有な作家さん。(河原さんは姿を現さないことで知られています。念のため。)
また、先日グッゲンハイムの河原温展に合わせて、Twitter上に現れた@On_Kawaraの正体であるPall Thayer氏とのインタビュー作品を発表したりと、河原さんと関わりの深い作家と言えるでしょう。
豊田市美術館で開催された「反重力」展でもその繋がりを感じました。
奥村さんはもちろん作家として知っていましたし、このブログでも感想書いたりもしていたし(「善兵衛の目玉(宇宙編)」、「風桶展」等)、普段からTwitterでもフォローさせていただいていたので、一度お会いしてみたいなとは思っていました。
で、この機会に会ってみようということで、普段コミュ症の僕が勇気を振り絞ってお声かけしたら、ぜひ会いましょうと言ってくださったのです。
実際お会いできただけでなく、ベルギー滞在中はお世話になりっぱなしでした。
さらにはその前日に作品を見たばかりのスーチャンが車で一緒に行っていただけるとのこと!
というわけで、僕と奥村さん、スーチャン、そして昨夜オペレーションに参加していた一人の四人でゲントの郊外にある美術館へ道がわかりにくすぎて迷いまくりましたがなんとか到着。ついに河原温展にご対面です。っていつもながら前置きが長いですね、はい。

















タイトルの通り1966年、つまり河原さんがデートペインティングを始めた年に描かれた作品のみを集めたとっても贅沢な展覧会でした。
よくもこれだけグッゲンハイムに持って行かれずに集まったもんやなぁと。
そして展示はまさに息を飲む美しさ。来て良かった。。。
ほとんどの作品が自然光のみで照らされていて、とても穏やか。
この日は展覧会初日でオープニングも朝からあったみたいなのだけど、僕らが着いた時には終わっていて、でもそのおかげで静寂に包まれて見ることができました。やはり彼の作品は静寂の中で観てこそ語りかけられるものがある気がします。
その後皆でレストランに行き、彼の作品のこと、展覧会について語らいあいました。
僕と奥村さんが、彼の作品をprogrammeという言葉で表そうとしたら女性陣から大ヒンシュク笑
でもやっぱり彼は1966年に自分の人生をプログラムに乗せたと僕は言いたい。しかしそのプログラムに乗り切れないはみ出た部分(毎日は描かない、手書きのフォント、等)に、ヒューマニティがより一層コントラストとして浮かび上がってる気がする。
また話の中で、彼の誕生日の話になり、彼の誕生日には1933年1月2日説と1932年12月24日説があるっていうのも非常に興味深いファクターだと思った。
人生が終わる日は決定可能/不可能の間を行き来している。
自分で終わらせること(自殺)だってできるし、病気で死ぬことも交通事故に遭うことも自由。でも生まれる日は絶対的に決定不可能。にも関わらず、河原さんにはその始原の日の可能性が開かれているって、やはりこの作品を作っている作家の特異性を感じずにはいられない。
そして、この展覧会初日が3月29日っていうのも重要なんだと僕は思う。なぜならこの日はヨーロッパがサマータイムに移行する日だから。サマータイムって時間が文字通り歪んで別の世界に接木される感覚があるんだけれど、河原さんの作品観ていても、別の時間(この展覧会だと1966年)と今現在(2015年)が接木される感覚がある。
書かれた当時が圧倒的存在感で現在してる様。
初日が日曜ってのはやはり不自然だし、関連あると思うし、なんとなくこの日に来たかった。
時間のねじれは特に同じ日のデートペインティングが2枚ある時に異常な渦を巻いてこちらに現れてくる。
時間はどことなくまっすぐ矢のように進むイメージがあるけれど、河原さんの作品を見ていると改めて時間の偏在性を想う。
色々思念を馳せながら、時には空っぽになりながら、時間たちと向き合える本当に豊かな展覧会でした。
これが旅路の果てで本当によかった。
この展覧会は6月14日まで。こちら。
Suchan Kinoshita 'Operating Theatre' @ A.VE.NU.DE.JET.TE – Institut de Carton vzw





オランダからベルギーへ。
実はアムステルダムが一部停電になり、近代美術館は見れなくなるわ、電車も止まって駅で5時間も待たされるは散々な目に。。。
なぜか国立博物館やゴッホ美術館はやってたので有名な「夜警」や「ミルクを注ぐ女」や「ひまわり」は観られましたが、本当はこのままドイツに向かうはずだったのに全部キャンセル。
ということでベルギーはブリュッセルです。
ブリュッセルでは色々ギャラリーも回りましたが最も印象に残ったのはスーチャン・キノシタの作品。
このスペースは知る人ぞ知るスペースなんじゃなかろうかという場所で、ブリュッセル在住の作家奥村雄樹さんがTwitterで感想をつぶやいてるのを見て発見しました。(奥村さんにはこのブリュッセル滞在で本当にお世話になりました。この話はまた後日)
この作品は毎日やってるわけではなく、この日たまたまやってたの観られて物凄くラッキーでした。
彼女はこの作品を「オペレーション」と呼んでいますが、最初会場で何が起こっているのかいまいち理解できませんでしたが、わかるにつれて様々な問題を孕んでることに気づきました。
構造としては、ガラスが三層棚のように重ねられた装置があって、3人(人数は変動)のパフォーマー(?)がそれぞれガラスの上に色んなものを置いたり重ねたり転がしたりと様々な行為が繰り広げられてて、それを真上から捉えたカメラの映像が同時上映で2階の展示室に投影されてる。
行為されてる場所と映像を同時に観ることはできなくて、観客はどちらかを観ることになるんですが、どこにフォーカスを当てるかによって、万華鏡のように作品の見え方が変わる。
ある時は装置が彫刻に見えるし、ある時はパフォーマンス、ある時は映像、そして一枚の絵画…。
あらゆるジャンルが全く無理なく同居していて軽々とそのボーダーを往来していく様はすごい。
カメラはオートフォーカスで、ボヤけたりピントがあったりと、まるでこの作品を見ている僕の頭の中のよう。
タイトルにはオペレーション=手術となっていて、確かに真上から見たその映像は外科手術に見えなくもなけれど、あまり具体的な例えはこの作品に勿体無い気がした。
あと、上演後スーチャンの話を聞いているとどうも彼女はこの作品を音楽とも結びつけているようで、三人に与えられたタイムスケジュール(どれほどの幅があるのかは不明)をスコア(楽譜)と呼んでいたりしていた。これもあまりよくわからなかったんだけど、すごいのが、この作品の上演時間は数時間に及び、僕が観た時は三時間もあり、行為に繰り返しがなく、観ていて全く飽きなかった。
6月までに2、3週に一度の頻度で上演されるようなので、ブリュッセル行く方は是非。こちら。
Anne Teresa De Keermaeker 'Work/Travail/Arbeid' @ WIELS


ROSASのアンヌによる「パフォーマンスとしての展覧会/展覧会としてパフォーマンス」。
会場は元ビール工場を改装したアートセンター。レジデンスなんかもやってるブリュッセルでは有名な施設。
会場には椅子もステージもなく、観客とパフォーマーが同一平面上にいて、時には触れるような距離でダンスや音楽が繰り広げられる。
以前発表した'Vortex Temporum'を解体して、開館中の間中ずっと上演されてる。
始まりも終わりもないので、観客はいつ入ってもいつ帰ってもいい。
ことごとく舞台の概念からは逸脱している。
試みとしては非常に興味深かったのだけど、このスタイルにいかんせん彼女のパフォーマンスが合ってなかったのは痛かった。
以前一度だけ彼らの演目'Rosas danst Rosas'を観たけれど、彼女のダンスは観客に緊張を強いるものだ感じたし、その圧倒的な邪悪とも言えるパワーが魅力なので、こういうゆるい場にはどうしても合わない。
例えばピナ・バウシュとかだったらもっと成功していたかも。
作品の良し悪しではなく、そのキャラクターの問題。
ということで少し残念だったのだけど、すごいのが土曜日の朝ということもあってなのか、ほとんどの観客が子供連れ!こんなガチでコンテンポラリーなダンスにまだ小学校にも上がってないような子供を連れてくるなんて発想日本ではあまり考えられないと思う。でもこっちは子供の趣味に親が付き合うだけじゃなくて、親の趣味に子供を付き合わせるのも自然だし、実際この子供たちはなんと、パフォーマーの動きに触発されてか一緒に踊っている!大人にはできない観賞方法で感心させられっぱなしでした。子供は子供、親は親という考えは勿体無いんだなぁと思いました。
この「展覧会」は5月17日まで。その後テートモダンに巡回の模様。
ちなみに4月に東京でもROSASの上演があります。
来日公演は2010年のあいちトリエンナーレ以来では。こちら。
・Anish Kapoor @ Gladstone Gallery
NYにもある大御所画廊。そしてカプーア。鏡面1点とワセリン2点の3点のみ。
・Rineke Dijkstra @ Jan Mot
この人の作品久々に観た。今回は映像。相変わらずどぎまぎする少女の像。
ここはギャラリーコンプレックスで他にもGalerie Micheline SzwajcerとGalerie Catherine Bastideが、奥のビルにはMon Chéri、Jeanrochdard、Waldburger Woutersも入ってて、ブリュッセル来て画廊観たかったらここですね。あとちょっと歩いてMotinternationalも小さいけどいい感じでした。
・Johnnes Wald @ Galerie Greta Meert
やってる展覧会はともかく空間がでかくてかっこいいギャラリーでした。
ちょっと歩いたdèpendance、c-o-m-p-o-s-I-t-e、Aliceにも行ったけどどれもイマイチ。
それよかこの近くのマルジェラがかっこよすぎて久々にシビれた。。。
以上。
ブリュッセルギャラリー巡りにはこちらが便利。画廊行ったらマップ置いてます。
Educatorium by OMA

ポルトガルからアムステルダムへ。相変わらず無茶な旅程です。
今日は一日文字通りオランダ中を駆け巡ました。
アムステルダム→ロッテルダム→ユトレヒト→アルメラ→アムステルダム。
狂ってます。しかもものすごい寒さで、すっかり春の出で立ちだったので死にかけました。
最後のアルメラでH&M見つけて思わずパーカー買ってしまった。7€。もっと早くに出会いたかったぜ。
それはさておき、何げにオランダ初めてなので、気になる建築を片っ端から。
順番は前後しますがまずはレムのユトレヒト大学内にある建物から。
今日見た中ではこれが一番。
外観にそのままフロアのレイヤーが現れてる。まるで途中でスパッと切ったかのよう。
やっぱこういうレムの潔さが好きです。
学生はこんなとこで普段からお勉強できるなんて。
にしても各地で大学に侵入しすぎ笑
なぜかグルスキーのデカい写真(もちろんコピー)が飾ってあったんだけど何やってんやろ。






そして同じくレムのロッテルダムにあるクンストハル。
こちらは個人的に全く好きになれなかった。
まず美術館として、完全に失格。
これほど観客を疲れさせるサーキュレーションもないでしょう。
何回も同じところ行ったり来たりしてしまって疲れた。
あと、色々やりすぎて、結局何がしたかったんかが不明瞭すぎる。
レムの潔さがここではかなり失われていました。
ちなみにやってたのはチェコの作家Krištof Kintera。昔国立国際美術館でやってた「転換期の作法」展で見たことある。確か。あまり好きじゃない。他にも色々やってました。(投げやり)






あと近くにOMAによるホテルもありますが、寒すぎて遠くから。。。

そしてロッテルダムに最近できた同じくオランダの事務所MVRDVによるマーケットホール。
Rotterdam blaak駅前にありますが、すごいインパクト。
外側はオフィスや人が住んでたりする。。。中は市場で楽しかった。



オランダは基本的に奇抜な現代建築だらけなんですが、その祖はやはりリートフェルト。
オランダの芸術運動デ・スティールを最も表す建築がユトレヒトにあるシュナイダー邸。
レムのエデュカトリウムからもわりかし近いです。とはいえ徒歩30分ぐらい。
現在は予約制でガイドツアーのみ内部見学が可能。撮影不可。こちら。
思ってたより小さくてびっくりしました。
サヴォア邸もでしたが、やはり建設当時の立地条件と今では全く異なっていて、ちょっと残念な感じ。
機能性を尊重しすぎてからくり屋敷みたいになってたし、色使いとかどうしても今からするとダサいけれど、内部と外部のぼかし方や関係性は現代のレムやMVRDVにも通づるところがある気がしてオランダ建築の系譜を感じられたのはよかった。

最後はSANAAによるアルメラシアター。
これは確か妹島さんが当時仕事がなさすぎて事務所畳みかけてた時にレムから依頼が来て首の皮一枚で繋がった奇跡のプロジェクトだったはず。その後の彼らの活躍を思えば本当に奇跡です。
でもまあ、外観だけ見てもSANAAと言われないと気づかない。
どうやら中に入ってるオフィスの各部屋の間仕切りの薄さがキモみたいなのだけど入れないのでわからず。
この時謎のレセプションでごった返しててどさくさに紛れてジュースや食べ物を頂戴したのは内緒です。
壁の絵はマイケル・リンによるもの?(多分)
アルメラには他にも現代建築だらけですが、これまた寒すぎてそれどころじゃなかった。。。想像以上に都会でした。






以上!
Monika Sosnowska 'Architectonisation' @ Fundação De Serralves

「Balustrade(2015)」
今回ポルトガル行きを決めた最大の理由がこれ。
銀座エルメスでモニカ・ソスノフスカの展示があると聞いて、なんとなく調べたら見つけてしまった展覧会。しかも会場はポルトガルを代表する建築家アルバロ・シザの建築。
彼女の作品は2007年ヴェニス・ビエンナーレのポーランド館で観たのが強烈すぎて、この覚えにくい名前と裏腹に作品が脳裏に焼きついてたのです。
そしてポルトまで足を伸ばして本当によかった。。。
僕の中で彼女とRachel Whiteread、Doris Salcedoは美術三大女神です。どうでもいいね。
今回最も素晴らしかったのは、シザの空間とコラボレーションともいうべき完璧な調和を生み出してた点。
シザの建築ってこれまで正直あんまりわからなかったんだけど、今回の展示を観ていて、なんとジェントルな建築家なんだと思った。
実際この美術館はファサードレス建築と呼んでもいいぐらいファサードがない。
前記事のCasa da Músicaとは対照的。
外観はどこから撮っても絵になりません。
しかし一旦中に入って、作品が置かれてみると、凄まじい美しさ。
特に「Hole」の展示は素晴らしかった。
あと「Entrance」は最初どこに作品があるのかわからなかったけど、ドアを開いてやられた!ってなった。昔ドラえもんで、偽ドラえもんみたいなのが出てきて、デタラメな道具出してた中にどこまでもドアってのがあって、それを思い出した笑
これだけの規模のは日本では中々難しいかもしれないけれど、都現美の吹き抜けとかにどデカイのやって欲しいなぁと妄想しました。
展覧会は5月31日まで。ポルトも素晴らしい街なので機会があれば是非。こちら。
「Façade (2013)」


「Hole (2006)」




「Market (2012-14)」


「Antechamber (2011)」



「Entrance (2003)」


「Stairway (2003)」

ポルトの街中でこんなの見つけて、ここでもやってんねや!と思ったら違った。

さて、ポルトから移動してリスボンへ。
僕の中のシザの代表作のポルトガルパヴィリオン。
非現実な感じのコンクリートの屋根。これもセシルが関わってるはず。
この建物現在ほとんど使われてないのか、ところどころ朽ちかけてて残念。




あと、カラトラヴァの駅。
なんかもう彼の建築に全く心動かされなくなってしまってた。残念。




Casa da Música by OMA

ヨーロッパの西の果てポルトガルまでやって参りました。
まずは首都ポルト。
ポルトといえばレムの代表作の一つCasa da Músicaです。
同名のメトロ駅からすぐ見えます。
その昔家として設計してたら施主があまりにガミガミ文句つけるので施主をクビにしてこのミュージックホールのコンペに転用したという伝説があります笑
どこから眺めても不思議なアイコニック建築ですね。








起伏のある広場はスケボーの練習場と化してました。
昔バルセロナ現代美術館行った時もそんな感じだったな。
そしてなんといってもこの階段のくっつき方。なんかはみ出しちゃってます。
レムの建築の魅力って僕はこういう暴力的なところに感じちゃうんですよね。
建築を物として扱ってる感じというか、模型作るような感覚で建築作っちゃってる感じ。
そしてレムの建築の中では自分がミニチュアになったような感覚があってそれがまた気持ちいい。
中に入るとビームの走り方とかすごいです。構造家セシル・バルモンドの力もあるんだろうけど。
16時からは英語の建築ツアーもあります。たっぷり一時間。素晴らしかった。
中は迷宮のようで、自分が一体建物のどこにいるのかわからなくなります。
中にはポルトガル伝統のタイルやオランダのタイルとコラボしたVIPルームなども。
コンサートホールのカーテンが行った時はリハーサル中だったので閉まってたけど、これが全部開いて外の風景を借景にオーケストラとか最高だなと想像したり。
一階のカフェもオシャレでした。
ショップもオシャレで思わずTシャツ買ってしまった。。。



















2005年の開館から今年でちょうど10年。すっかり街のシンボルです。
<関連記事>
Leeum Samsung Museum of Art
SEOUL NATIONAL UNIVERSITY MUSEUM OF ART by OMA
「エレメント」構造デザイナーセシル・バルモンドの世界@東京オペラシティ
ところでこのポルトという街は、本当に素晴らしい街でした。
まだ東欧ほとんど行ってないのだけど、西欧では自分が訪れた街の中で一番よかったかも。
この日は昼に着いて、この建物見る以外スケジュール立ててなかったんで、ツアー後の夕方から適当に歩き出したら、もう街の美しさに魅了されてしまって、気付けば3時間ぐらい歩いてた。
ポルトガルって、フランスやイタリアやスペインに比べるとやっぱ派手さには欠けるけど、変に観光地化されてない、洗練されない美しさが街中に漂ってた。日本でいうと京都に対する奈良みたいな。
そして物価も安くてスイスとのコントラストが泣けた。。。日本の半額ぐらいかも。
昨年の経済危機もあったけど、街もそこまで治安悪そうには見えなかったし、皆穏やかな。
もっと日本人も来るべきだと思います。すっかり魅せられました。










Omar Ba 'Dead Time 1' @ ferme-asile


レジデンスももう半分終わり、グループ展も終わり、ふと大事なことに気付きました。
スイスのアートほとんど観てない!
これは我ながらイタイ。
ロンドンいた時はもう死ぬほど回ってたギャラリー巡りも、スイスではほぼしてない。
こないだ衝動的にバーゼル行ったけど、ギャラリーは一軒も回ってない。
スイスにいながらスイスのアートシーン全くわからないまま終わるところでした。
まずは身近なところから、ということで、僕の住むブリークのあるヴァレイ州の州都シオンへ。
このヴァレイ州というのは、スイスの中でも田舎で、正直文化不毛の地。
そのイメージを払拭しようと、近年特に文化にお金を回し始めています。
僕のこのレジデンスもその一環です。
このヴァレイ州、アートピーポーはほぼ来ないであろう場所ですが、都会では中々見られない特殊なスペースがたくさんあります。
こないだの僕がグループ展やった場所だって軍の倉庫やったし。
そして今回紹介するシオンにあるferme-asileは想像を絶するとんでも空間でした。
多分元農場倉庫。。。とにかく見たら何がトンデモかわかると思います。





広い、広すぎる。そして場所が強い、あまりにも強い。
そんな中よくぞ闘ったという感じに感銘を受けました。
作家はセネガル出身で現在ジュネーブを拠点に活動している作家。
正直まだ場所の方が優勢感あるけど、真っ向勝負挑んでる感じがよかった。
真ん中の壁もダンボールで作られてて、作品のラフさも中々よかったです。
ちなみにこの空間は二階で、一階はレストラン。
場所も駅から離れた郊外で、便利でもないのに大分賑わってました。
雰囲気もかなりオシャレで地元の人たちに相当愛されてるみたいです。
http://www.ferme-asile.ch
そしてもう一つ、ヴァレイ州立美術館です。
ここもトンデモ空間やった。。。元城?かな。
途中中庭では、この街のシンボルヴァレール教会とトゥルヴィオン城跡も見れます。もちろんアルプスも。
基本的にはヴァレイ州に関連した作品のみを収集していますが、現代美術も豊富で楽しめました。
なぜか中にはトーマス・ルフやアブラモヴィッチの作品も。。。
友人のJocJonJoschの作品も置いてありました。








ボートが友人の作品ですが、その次の写真に写ってる菱形の立体。
なんとなく気になって、帰ってきて作家調べたら久々に凹むほどいい作家だった。
しかも1987年生まれでまだまだ若い!
http://julian-charriere.net
最近は既に名のある作家の展覧会しかほぼ見てなかったので、改めて新進作家を知れるのはいいですね。初心忘るべからずです。
来月以降はチューリヒ、ジュネーブ、バーゼルあたりを攻めます。
最後に地元ブリークのとんでも空間。近い将来僕が個展やることになるGalerie zur Matze。元塩の倉庫。
現在、2013年に逝去したWilli Dreesenの回顧展が開催中です。
現在僕は彼の作品のストックルームだった場所をアトリエにさせてもらってるので、そういう意味でも関わりのある画家の展示ということで、感慨深いものがあります。
個展時にはアトリエでコラボレーションも予定しているのです。
彼は、元々ドイツ人で、戦前ナチの軍人でしたが脱走し失敗。幸い直後に終戦し、第二の人生を歩むべく旅路の果てにたどり着いたのがこのブリーク。以降彼は画家としてこの地に骨を埋めます。
彼の作品は多岐に渡りますが、特にスケッチが好きです。
Matze以外にも元倉庫だったWorkhofというところでもやってます。








さて、来週からはこのスイス滞在中多分ラストとなる長期欧州行脚です。。。
「存在と時間」by マルティン・ハイデガー
いよいよハイデガーです。
カントから始まったドイツ哲学のピークは彼にあったと言っても過言ではないでしょう。
彼の後にもアーレントやアドルノがいますが、やはり彼と比べちゃうとね。
この後の思想史はむしろフランスに移ってしまいます。
続きは以下
カントから始まったドイツ哲学のピークは彼にあったと言っても過言ではないでしょう。
彼の後にもアーレントやアドルノがいますが、やはり彼と比べちゃうとね。
この後の思想史はむしろフランスに移ってしまいます。
続きは以下
"YOUNG ART 2015" 終了しました。












スイス来て初の展覧会が無事終了しました。
3日間のみという短い期間でしたが、イベントも盛りだくさん。
会場は元軍の倉庫ということで、めちゃくちゃ広いので、僕は作品を散在させることにしました。
「Frülingslied」というドイツ語のタイトル。「春の歌」という意味です。メンデルスゾーンの曲のタイトルでもあるんですが、僕のイメージはむしろスピッツ(笑)
町で集めた雪解け水が、空中にぶら下げた器から下の器に滴るというもの。
その雫の音を「春の歌」として、広い会場の中でささやかに奏でてみました。
器はレジデンスにあったものを勝手に拝借したり、アンティークショップで買ったり。
個人的に物凄く反省の色々残る展覧会で、レジデンスも半分過ぎたこの時期にこうして振り返られたことはとても意義深かったです。
この反省をなんとか6月の展示に活かせたらと思っています。
嗚呼、早く春よ、来い。
展覧会のお知らせ "YOUNG ART 2015" @ ZeughausKultur

来週金曜日からスイスのブリークで始まるグループ展「YOUNG ART 2015」に参加します。
「SWISSNESS」をテーマに8組の作家が展示します。
会期中には様々なイベントも開催されます。
自分は14日の17時からのアーティストトークに参加予定です。
Date:
13-15 March 2015
Venue:
ZeughausKultur
Artist:
Gael Epiney, Marion Locher, Minoru Morikawa, Luca Degunda, Angela Werlen, Jon Lindholm, Ramon Schnyder and Joana Fux
Event:
13 March 19:00- Vernissage 20:15- Symposium 22:00- Live(Franco Mento and Cédric Raccio)
14 March 14:00- Exhibition 17:00- Artist Talk1 18:15- Performance 19:00- Artist Talk2 21:00- Live (Plexelpunx)
15 March 14:00- Exhibition 16:00- Round Table 18:00- Finissage
会期が3日間だけと短いんですが、スポンサーもばっちしついて、制作費も出していただけました。
街中にも広告がたくさん。日本では考えられない。。。



「暇と退屈の論理学」by 國分功一郎

2011年に刊行されたこの一冊。
とても大好きな本で、何度も何度も読み返したい一冊。
わざわざスイスまで持ってきて再読しました。
「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」
というのが本書のテーマです。
「暇」も「退屈」も改めて考えることってなかなかないし、そもそもあまりいい言葉じゃない。
でもこのありふれた言葉だからこそ、生きるヒントが隠されてる。
書き方もとてもやわらかくて、順序立てて説明されるのでとても読みやすいです。
まず第1章では、パスカルを挙げて人間の不幸を考える。
パスカルは言います。
「人間の不幸というのは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。」
著者も言うように、この言葉は憎たらしいほどズバッと人間の不幸の根源を言い当ててる気がします。
家にいれば事故にも遭わないし、わずらわしい人間関係にも関わらずに済む。
でも、やっぱりずっと一人で家に閉じこもるのは限界がある。なぜなら人はその退屈に耐えられないから。
またパスカルはわざわざウサギ狩りに行く人を例に挙げて、その人にその目的であるはずのウサギを提供してみろと言う。
もちろんウサギ狩りに行く人はいい顔をしない。
なぜなら目的はウサギそのものではなく、狩りをするその「気晴らし」にあるから。
(ちなみにこれらが書かれているパスカルの「パンセ」はここまで冴え冴えなのですが、それから逃れるには宗教、それもキリスト教を信じることが道だということを延々と述べてて後半は正直読むに耐えません。)
この不幸の問題は現代の消費生活に当てはめてもよく分かる。
人々はそのものが欲しいのではなく、それを手に入れるということが重要。
ものには限界があるが、ことには限界がない。
飛びますが、第4章ではボードリヤールの思想を挙げながら、もの/こと=浪費/消費をあげて、人々は消費する限り永遠に幸せになれない。むしろ浪費をすべきだと著者は訴えます。
この消費こそ、現代人が苛まれてる最大の病だと。
それを逆手にとって、企業は需要が生まれる前から供給を開始する。
日本は特にそれが顕著な国だと思います。
エンターテイメントで溢れすぎて、本当にやりたいことなんて見えなくなってる。
供給側はどんどん次の手を送り込んできて、一層何がなんだかわからなくさせる。
「ありのままで」とか「オンリーワン」とか、曖昧模糊な「個性」を人々に押し付けて、「疎外」を感じさせ、ありもしない「本来」を取り戻させようとする。
最近はその思想が教育現場にまで浸透してきてるようで非常に恐ろしいと思います。
僕が大学に入って一番驚いたのが、作品の合評で、あまりにも「自分探し」という言葉を皆普通に使っていたことでした。
「自分探し」ってどういうこと?じゃあそこにいる自分は何なん?
これはどこかに「本来」の自分があるという誇大妄想がそういう発言をさせてるんだと思います。
僕は呑気だったのかそういうことを考えたことがなかったので、驚きました。
むしろ自分の場合は、自分が強すぎて、自分から離れたいという思いの方が強かった気がします。
作品のことを「表現」とか「自己表現」とか言う人もいますが、僕はこの言葉がすごく嫌いです。
作品というのは、「表現」なんてしようとしなくても、個人の思想や状況、環境、経験、歴史等々が、嫌という程に映し出されます。
「表現」というと、押し出すような感覚がありますが、そんなことしなくても出ちゃう。
かくいう自分も、大学の終わり、イギリスの留学が決まって、「日本人としての自分」という考えにはまってしまって、日本人らしい作品を作らなければというオブセッションに囚われたことがありました。
実際そうすればそうするほどどんどんやつれてしまって制作がまったく楽しくなくなってしまった経験があります。
途中で、いやそういうことちゃうやろ、と気づけたので、イギリス行った頃にはまたリセットできたのですが、この「らしさ」というのは非常に危ないと思いました。
らしくあろうとすればするほど無理が出てきて破綻してしまう。
そんなものは、勝手に出てきてしまうものだから、自然体でやっちゃえばいいんです。
話は少し逸れましたが、この章を読みながらそんなことを思い出しました。
また、第3章には暇との付き合い方に触れられています。
暇とは客観的な時間のことです。
それを退屈と思うか思わないかであくまで主観的なこと。
「暇」と「退屈」って混合されちゃうけど実はそこに大きな違いがある。
この章では、暇と退屈の関係を4つに分けます。
1「暇」だから「退屈」
2「暇」だけど「退屈ではない」
3「暇じゃない」し「退屈でもない」
4「暇じゃない」けど「退屈」
1と3はよくわかります。どっちもandで結ばれる正当なつながり。
2に関しては、例えば昔の貴族の生活が挙げられます。
彼らは「暇」との付き合い方をよくわかっていた。なぜなら教養があるから。
よく「アートはわからん」とかいう人がいますが、分かる努力したことある?と逆に聞きたくなります。
そもそも芸術は貴族のためのもので、庶民のものではありませんでした。
だから、芸術を理解するには教養がいるんです。これは仕方がない。
それを「敷居が高い」とか言われても、努力が足りないだけってなる。
例えば今の日本は格差社会は言われてるとはいえ、一億総中流の社会です。
誰にでもわかって、誰もが楽しめるものこそが正義。そこからはずれるものは悪。
その正義につけこんでるのが消費社会です。そして人々は退屈からますます逃れられなくなる。
教養を身につければ、その退屈を逃れる道が何本も見つけられる。
退屈と向き合うということは、自分と向き合うことにもつながる。
僕も今ではこんなアートオタクですが、大学入りたての頃なんて、現代美術はわからん!と言ってた側でした。
それが、重い腰を上げて色々見始めると本当に世界が広がって、今では世界中を回ってしまうほどです。まあ、これは不幸といえば不幸なんですが。。。それでも知れてよかったと思うし、人生が豊かになりました。これだけは自信持って言える。
ということで、皆さん教養を身につけましょう。
しかし問題は残った4です。かなり矛盾です。暇じゃないのに退屈。
それが第5章でハイデッガーの思想を挙げながら展開されていきます。
さて、ハイデッガーは退屈を3つに分けます。
1 何かによって退屈させられること。
2 何かに際して退屈すること。
3 なんとなく退屈であるということ。
詳しくは本書を読んでいただくとして、著者は最も大事なのは2だと説きます。
2に関しては、気晴らしと退屈が同義になってしまってるややこしいケースです。
先に挙げた4項目のうち一番謎だった4。「暇じゃない」けど「退屈」。
気を晴らすために、自分を投げ出し、自分自身を空虚にさせる。そのことに退屈を感じる。
この「退屈」こそ、実は我々が普段接している最も身近な「退屈」なのかもしれない。
そしてこの「退屈」との共存こそ、我々人類が築き上げてきた文明であり文化の形だ。
ちょっと飛びますが第7章の言葉。
「退屈と向き合うことを余儀なくされた人類は文化や文明と呼ばれるものを発達させてきた。そうして、たとえば芸術が生れた。あるいは衣食住を工夫し、生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら、人々の心を豊かにする営みを考案してきた。
それらはどれも、存在しなくとも人間は生存していける、そのような類の営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間が、そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」
そう考えると「退屈さん、ありがとう」という気持ちにすらなりますね。
戻って第6章では、ユクスキュルの「環世界」を取り上げてます。
著者も言ってますが、僕ら人間は様々な「環世界」を行きつ戻りつしながら生きています。
たとえば僕の場合、普段の自分とアーティストとしての自分がいます。
普段の自分はせっかちで、色んなものごとを効率良く取り込みたいと思っている。
よく「生き急いでる」と言われますが、まさにそういうスピードの環世界を生きています。
しかし、一度アーティストの「環世界」に入ると、全く逆で、物凄く遅い時間を生きられます。
たとえば一つの作品を成長させるのに、現実の時間で5年かかると思っています。
それでもアーティストの僕の中では全くこれは遅くもないし、普通です。
こうして大きく二つの世界を行きつ戻りつしてるのが今の自分だと思います。
そして、ものづくりの人はこういう「遅さ」といかに付き合っていけるかがかなり肝だと思います。
最後に山本耀司のインタビューを貼っておきますが、最後の最後に彼は「待つ体力」という言葉を使っています。
「待つ」というのは、とても静的な動詞ですが、これほど忍耐のいる動作もないと思います。
5年かかろうが10年かかろうが、作品が成長する様を「待つ」こと。
今、個人的にこの5年目を迎えようとしているので、改めてこの本を読んで「待つ」ことの退屈さと向き合う覚悟ができたような気がします。
また、何年か後に読み返したいなと思います。