52 la Biennale di Venezia ♯1

グランドツアーのラストを飾るのが2年に1度のヴェニスビエンナーレ。
今回で52回を迎え、数ある国際展の中でもダントツ歴史が長い。
ざっと説明をすると、ヴェニスビエンナーレは大きく2つにわけられる。
1つはジャルディーニという会場と島のあちこちに点在する国別パビリオン。
そしてもう1つが今回お伝えする、アルセナーレとジャルディーニの旧イタリア館を使って行われる企画展である。
毎回1人(組)のキュレーターによってドクメンタ同様、テーマ設定から作家選定まで行われる。
今回のキュレーターは初のアメリカ人キュレーター、ロバート・スト-氏。
氏は元MoMAの館長で現NY大学の教授である。
今回のテーマは「think with senses/feel with mind/art in the present sense」
「感覚で思考し心で感じよ 現在形のアート」 邦題はこんな感じ?
にしても52回にして初アメリカ人とは。前回も初女性キュレーターだった。
さて、まずは「MoMAヴェニス別館」と言われた旧イタリア館の展示から。今回は写真あり!









いやー、とにかく豪華絢爛!これだけの作品群を一気に見られるなんて!
上からイタリア館のファサードを飾るローレンス・ウィナー、入って真正面に鎮座するポルケ、リヒターのアブストラクトペインティングたち、ブルジョワのドローイング(草間弥生みたいだ)、ブルース・ナウマンの口から水がちょろちょろ出てる相変わらずギャグすれすれの作品、ソル・ルウィットのめらかっこいいドローイング、今回のアメリカ館代表のフェリックス・ゴンザレス=トレスの簾、そして日本人の束芋と加藤泉。
上にアップした写真だけでもすごいが、この他にもロバート・ライマンやらジェニー・ホルツァーなどなど豪華作家陣のオンパレード!ソフィ・カルのお母さんに捧げた作品も泣けた。さすが元MoMA館長。
と、まあ、ここまではリップサービスといった感じで、ストー氏が牙をむいたのがアルセナーレの展示。
率直に言って、腹が立ちました。途中で出たくなったくらい不愉快な展示でした。
というのも、9.11をこれでもかこれでもかと押し出した展示だったから。
所詮元MoMA館長もアメリカ人か。
開いた傷口を見せて「痛そうでしょ、かわいそうでしょ」と言われてるようだった。
その為に作家達の作品が利用されてる感じで、もううんざり。
今回のタイトルから言ってもっと「表現」の根本をつくような展示を期待していたのに見事な裏切り。
話題を集めていたまだ若いエミリー・プリンスのイラク戦争における、アメリカ人戦没者の似顔絵を3800枚壁に展示した作品も、あれはアメリカ人を責める作品であって、世界に示したところで全く意味がない。作品のコンテクストがはぎ取られている。
前半はこんな社会的、政治的、ジャーナリズム的作品のオンパレードでホントしんどかった。
そもそもこういった作品をアートでやる意味ってどこまであるんだろう。
どう考えたってテレビニュースで流した方が影響力があるように思う。
僕は美術というのは視覚芸術であると信じてやまない。こんなの美術じゃない。
今注目の 楊福東(ヤン・フードン)の映像だってあれはアートじゃなく映画だ。
友達ともしゃべっていたんだけど、今アートはまさに分裂期なんじゃないかと思う。別の言説が必要であり、アートという言葉でこれらの「作品」をくくってよいものだろうか。いくら懐の深いアートにだって、許容量の限界というものがあって、そろそろ臨界地点を迎えようとしているように思う。今こそそれらの「住み分け」をはっきり定義してくれる批評家やキュレーターが必要だ。とは言っても、ポロックが登場した時ピカソが「これは絵なのか?」と言った話や、デュシャンがトイレを作品として出した時、または写真がアートとして成り立った時にもこういった議論は散々かわされていただろう。そしていつも勝者は、当時異端といわれた側だった。そう考えると、僕が今唱えてるアートというのは単に古くさい因習に支配されてるだけで、所詮今アート界を席巻しようとしつつある「異端」がコモンセンスになってしまうのも時間の問題なのかな、とも思う。でもやっぱり自分が信じ続けられるものを信じ続けたいし、信念は貫き通したい。というかそれしかできない。
今回のアルセナーレの大部分の展示はそういった事を思わせる、重く沈鬱なものだった。
にしても本当に新しい言説が出てこない。
かつてのベンヤミンやグリーンバーグのような人はもう出てこないのだろうか。
前回のビエンナーレでも初の女性キュレーターってのもあって、ばりばりフェミニズムな展示だった。タンポンをシャンデリアのようにアレンジした作品や、ゴリラガールズの展示。フェミニズムはアート界に置いてもう古い。今や女性の方がアート界における地位は強いじゃないか(今回のフランス、イギリス、ドイツ館のあのたくましい女性達を見よ!)。時代遅れも甚だしかった。そして今回・・・。ここで今回のタイトルの一番最後に小さく付け加えられた「art in present tense(現在形のアート)」という言葉が気になる。もしやストー氏は旧イタリア館とアルセナーレのある種対照的な展示を置く事で、前者が過去、後者が現在と言いたかったのだろうか。だとしたら僕は完全に過去に取り残された感じだけど、やっぱ無茶だなー。次こそ納得できる新説を打ち出せる革新的な企画展を期待したい。そうじゃないと、100年以上続くこの歴史も幕を下ろさざるを得ないんじゃないだろうか。まあ、それはないと思うけど。
そんな中でもなんとか好きな作品に巡り会えた。
楊振忠(ヤン・ジェンジョン)による「I will Die」である。
映像が長い壁にいくつも投影されていて、それぞれに色んな国の人々が映し出されている。
そしてタイトルの言葉を各国の言葉で色んな人がつぶやく。
小さな子供から老人までが一様に「私は死にます」とつぶやく様は異様そのもの。
しかし、この不安感は逆に心地よかった。
単純な指示によって生み出される心地よい不協和音。そんな感じ。
最近中国アートの台頭が激しいが、ほとんどの作品が好きになれない。
そのほとんどが中国という土壌のコンテクストに依るものでしかなく、全世界に向けて発信するべきものとはかけ離れているように思えるからだ。しかしドクメンタの曾御欽と今回の楊振忠の作品はそれらの作品とは確実に一線を画している。彼らの作品は国籍に関係なく、すべての人が孕んでいる不安を描いているからだ。そういう点からもこの2人の作品はこれからも注目に値すると思う。
ちなみに偶然ながら、2人の作品は福岡アジアトリエンナーレの際、とても印象に残っている。あの展覧会で覚えているのは塩田千春とこの2人だけだったし、実際ブログに記してあるのもその3人だけだったのは、すごい偶然というか、然るべきというか。ちなみにその時の楊振忠の作品は、車椅子にカメラをとりつけ、周りから人々がどんどん近づいてくるような作品で、とても恐怖を感じたのをよく覚えている。
