TOYO ITO #2

既に21世紀の伝説と化したせんだいメディアテークに行ってきた!
ってことでまずは写真でレポート。
外観。前の並木通りが邪魔で正面から撮れず…
表参道のTOD'Sもそうだがホント切り落としたい<コラ
冬に木が枯れてから来たらいいのかな。
しかしこのファサード。全面ガラスですごい反射。青空が映って綺麗。
にしても、正直「伝説の」って聞いてたわりに地味だな、ってのが本音(汗) これ以降の伊東さんの仕事見てたらやっぱね。でもここからスタートしたんだと思うと胸が震えた。

ルーフまで伸びるチューブ(柱)。
ここから太陽光が下の階へと降り注ぐのです。

1階:プラザ
入ってまず感動したのがやはりチューブ柱!
こんなんで建物を支えてるんだからもう驚きです。
ただし、伊東さんも言ってたけど、やはり固さは否めませんね。
「海草のような」という最初のイメージとはちょっと違ったのかな。
受付とか椅子とかかわいすぎる!
ってかショップがNadiff!羨ましい…。

2階:インフォメーション
白と黒を基調にした2階。
児童書のスペースや雑誌などが置いてあります。
ソファーは妹島さんデザイン。
なんか実際使われてる姿を見るとほほえましいですね。
ゴミ箱まで素敵だ…。

3/4階:仙台市民図書館
こちらは赤を基調としてる。
各階でインテリアによって特徴づけられてる感じですね。
照明も独特。開放感溢れる図書館。
独立した自習スペースなどホントにいい所だ。
メディアテーク自体は9時オープンなんだけど図書館は10時から。バスが10時半だったので諦めようかとも思ったけど必死で見ました…。

5/6階:ギャラリ
残念ながら僕が行った時は開いてなくて見れませんでした…。
7階:スタジオ
僕が1番好きなフロア。
もうガラスのファサード越しに見る仙台の風景。
それを背景にして勉強したり好きな本読んだり最高ですね。
しかもここは美術・建築好きにはたまらない雑誌や本が目白押し!
それからビデオもすごい所蔵!!
もう仙台市民羨ましすぎです…
ちょっと青森諦めて今日はずっとここにいようかと揺れました(ぉ
あぁ、こんな施設が大阪にもあったら!!
インテリアも黄緑基調の相変わらずかわいい。
蛍光灯の配置もなんてシュールッ!!

もう本当によかった…建物も良かったけど施設としての良さも抜群。
そして印象的だったのは、市民の方々は本当に有効に使われてること。
オープン前に到着したのですが、もう既に入り口にはまだかまだかと市民の人々が並んでおられて、皆ここが好きなんだなっていう印象。
20世紀の巨匠ミース・ファン・デ・ローエという人がいます。
彼の唱えた言葉にこんなのがあります。
「less is more」
日本語に訳すと「最小限が最大限」といった感じでしょうか。
これは20世紀のモダニズム建築(デザイン)を支配した有名な言葉で、今の東京やNYのビル郡が一様にガラスをはめ込み直線で均質なのは、この彼の方程式の結果だと言われています。
確かにこの方程式に当てはめると、とてもミニマルでクールな空間が生まれます。しかし、そこには人間が営むという根本がそぎ落ちているように思える。人が営む空間が、人を風景から排除していくという矛盾が起こってきているのです。ミースが描いた未来像とはこんなものだったのでしょうか。
そこに疑問を投げかけ、それを実際打ち破ったのが伊東豊雄、その人です。
同い年の建築家に安藤忠雄がいますが、安藤建築と伊東建築の決定的な違いは、建築の持つ温度だと僕は思います。
安藤建築はモダニズムとクラシック建築が融合した形だと思うんですよ。モダニズムの冷たさとクラシックの権威に満ちた形を融合させたそれらは、確かにすごい緊張感に包まれた空間を生み出せてはいるけど、決して人が入リ込む余地がないように思える。
それに対して伊東さんの建築は、人が入ってやっと完成する建築というか、招き入れる力があるんですよね。安藤さんも人の温もりを大事にしたいとかインタビューでおっしゃってるけど、僕には彼の意図が彼の建築に感じられません。
例えば僕が建築写真を撮ってる時にも思うことなんですが、安藤建築ってできるだけ人入れて撮りたくないんですよ。あまりに建築自体が美しいから人が邪魔になる。でも伊東建築って人がそこで実際営んでる風景を撮りたくなる。そんな違いがこの2人の建築にはあると思う。別に安藤さんがじゃあ良くないってわけじゃなくて、それにはその良さがあるってこと。美術館や博物館はやはり元々権威を主張する建物というコンテクストがあるから安藤建築は向いてるんですよね。それに対して商業建築だと、やはり一般人に門戸を開放するってのが目的なので、多分僕が安藤の商業建築を好きになれない理由ってそこにあると思う。
せんだいメディアテークは伊東さんの建築のぬくもりが非常に伝わってくる建築だった。人々が好き好きに自分の場所を見つけていく。素晴らしかったです。
この建築の面白い所は、外観が均質で直線的でガラスのファサードっていうミース理論を徹底的に取り入れながら中がモダニズムに反する有機的なフォルムを描いてる所。伊東さんのミースへの挑戦状とも取れる挑発的な建物ですね。
この秋に見たベルリンの展覧会での伊東さんのエマージンググリッドによる床は、あれもミースヘの挑戦状。だって、あの新国立美術館はミースの代表作ですものね。その中であのグニョグニョな床はとても楽しかった。時代を超えた建築家同士の熱き戦い。おもしろいなー。
そんでもってこの建築が世界を震撼させたのはなんといってもあのチューブと呼ばれる空洞の柱。今までの建築のセオリー、壁・床・柱の三原則の柱をあんな形にして、屋内には壁が1枚もないという。しかも外面はガラスだから中にいるのか外にいるのかわけわからないという不思議な空間を作り上げてしまったのです。これ以降伊東さんははじけたようにすごい建築をいくつも作り上げてて止まることを知りません。これからどんな建築が生み出されるのか。楽しみでなりません。福岡の中核施設も完成したら絶対行きたい!そんでもってチューブを完全なまでに構造化した台中オペラシティは完成したらまた建築界に衝撃を与えることでしょう。プリツカー賞までもう少しです!
TOYO ITO #1

1941年。伊東豊雄は韓国のソウルで生まれる。
豊雄という名前は父が好きな豊臣秀吉から取られた名前。
両親共に日本人。父の仕事の関係で韓国での出生となる。
当時世界は大戦真っ只中。
父は日本が負けることを確信し、故郷の下諏訪に家族を移住させる。
豊雄少年2歳の頃。
それから中学生の頃まで諏訪湖を見ながら育つ。

父親の死。
豊雄少年小学校6年生の頃。
脳溢血。54歳という若すぎる死であった。
しかし父は豊雄少年にたくさんのものを残した。
よく息子を美術館や博物館に連れて行った。
それが今の建築家伊東豊雄を作り上げた礎であることは間違いない。

中学生の頃、母が諏訪を出る決心をする。上京。
それに際し、家を誰か有名な建築家に建ててもらうことに。
建築家は芦原義信。
しかし伊東青年はあまり気に入らなかった模様。
特に意味のない段差は不可解極まりなかったようだ。
その後伊東豊雄がフラットな床にこだわるのはこの体験からだという説も。

高校入学。野球部のサウスポーとして青春時代を謳歌。
徒競走も得意なスポーツ青年。
そんな彼も大学進出と共に野球をやめる。
大学は東京大学工学部建築学科。理由は特にない(らしい)
当時の建築学科は丹下研究室のオーラが立ち込めていた。
そこから伊東豊雄は刺激を多々受ける。

大学卒業と共に菊竹清順の事務所に入所。
当時の菊竹事務所は革新的なプロジェクトが目白押しでとても刺激的であった。
在籍4年目にして伊東は事務所を退所。1969年。万博の前年。
退所した伊東はしばらく親戚や知人から頼まれた仕事をこなす。
その頃生まれたのが義兄のために建てた「アルミの家」。

1971年事務所設立。事務所名をUROBOTと名づける。
当時所員は伊東も含め3人。仕事も年に数件。仕事がない。
今の「世界の伊東豊雄」の姿は予感すらなかった。
それが数年続き毎日議論ばかりしていたこともあった。
住宅の仕事は何件か入った。
「中野本町の家」や自邸である「シルバーハット」が少しずつ話題になる。
が、まだまだ「世界の伊東豊雄」は先の話。

90年代に入ると公共施設の依頼がぽつぽつと入ってくる。
ちなみにこの頃建てた中目黒Tビルは「東京ラブストーリー」の舞台。
1995年。せんだいメディアテークのコンペを勝ち取る。
伊東氏の最初のスケッチをファックスで受け取った構造家佐々木氏は
「最初に見たとき心底から震えがきた」
と、後に語っている。

2001年1月1日。21世紀の到来と共にせんだいメディアテーク竣工。
それは新しい建築の誕生であった。
これまでコルビュジエらが追求してきた「モダニズム」を打ち破る確信的な建物。
それがせんだいメディアテーク。
世界を震撼させた伊東豊雄はいよいよ「世界のTOYO ITO」になるわけである。
その後構造とデザインが一緒になった建物を次々発表。
作品ごとにスタイルを変える伊東の変化っぷりに世界は酔いしれている。
現在65歳。まだまだ始まったばかり。
関連資料
「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」 瀧口範子著
「建築|新しいリアル」 展覧会図録
写真
まつもと市民芸術館(2004) 伊東豊雄