「マルセル・デュシャンとアメリカ: 戦後アメリカ美術の進展とデュシャン受容の変遷」 by 平芳幸浩

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今年2017年は、デュシャンの「泉」が発表されてまる100年になります。
100年前にあんなものを世に発表したデュシャンという人物が空恐ろしいです。
未だにあの作品ほど美術という枠組みを変えてしまった作品はこの100年出ていません。
それほど彼の「レディメイド」という発明は美術の世界を変えてしまいました。
デュシャン以前の美術作品は、ほぼ技術がなせる技でした。
絵画にしろ彫刻にしろ、芸術家の手が重要だったのです。
その根本をあっさりとひっくり返してしまったのがこのデュシャンという人です。
なんせ男性用便器にサイン(それも偽名)をしただけで作品と言ってのけてしまったんだから。
それ以降美術作品において、手仕事であることはさほど重要でなくなりました。
作家が何を作品と名指すか。そこにどういう意味があるのか。
それが今の現代美術と言われるものの根底になりました。

そんなデュシャンが戦後アメリカにどう受け入れられてきたか、を論じているのがこの本です。
この本にはデュシャンの作品の解説もほとんど書かれていません。
あくまで、彼の存在が当時どんなものだったのかの研究です。
しかしそこには彼をいかに戦後のアメリカ美術が取り込んで行こうかという思惑がたくさん絡んでいて、読んでいてかなりスリリングな本でした。
結果的にはデュシャンは、その場その場で、まるでカメレオンのようにその受容のされ方に応じて態度を変えていった様が伺えます。
やはり一筋縄ではいかないようです。
ということで以下本の内容。




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「自画像の思想史」 by 木下長宏

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久々の本の紹介です。
木下長宏氏による「自画像の思想史」。
以前から自画像という存在が気になっていて、もう興味ドンピシャな本で一気に読んじゃいました。
木下氏は近年ゴッホ、ミケランジェロ、岡倉覺三と、一人一人の個人史をあくまで彼らの作品を通して丁寧に再発見していくような仕事を立て続けに発表してらっしゃったけど、僕は個人的にこういう全体的な大きな歴史を取り扱った作品が好き。木下氏としては2009年に発表された「美を生きるための26章」以来ですね。
続きは以下。長いです。



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「存在と無」by ジャン=ポール・サルトル

久々の読書コーナー。
展示作業も終わり、平穏な日々の中コツコツ読み始めました。
ということでサルトルの「存在と無」。実存主義です。
以下読みたい人だけどうぞ。

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「知覚の現象学」by モーリス・メルロ=ポンティ

ドイツ哲学をとりあえず終えてフランス近代思想へ。
まずは現象学のメルロ=ポンティです。
続きは以下。

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「存在と時間」by マルティン・ハイデガー

いよいよハイデガーです。
カントから始まったドイツ哲学のピークは彼にあったと言っても過言ではないでしょう。
彼の後にもアーレントやアドルノがいますが、やはり彼と比べちゃうとね。
この後の思想史はむしろフランスに移ってしまいます。
続きは以下


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「暇と退屈の論理学」by 国分功一郎

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2011年に刊行されたこの一冊。
とても大好きな本で、何度も何度も読み返したい一冊。
わざわざスイスまで持ってきて再読しました。

「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」

というのが本書のテーマです。
「暇」も「退屈」も改めて考えることってなかなかないし、そもそもあまりいい言葉じゃない。
でもこのありふれた言葉だからこそ、生きるヒントが隠されてる。
書き方もとてもやわらかくて、順序立てて説明されるのでとても読みやすいです。

まず第1章では、パスカルを挙げて人間の不幸を考える。
パスカルは言います。
「人間の不幸というのは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。」
著者も言うように、この言葉は憎たらしいほどズバッと人間の不幸の根源を言い当ててる気がします。
家にいれば事故にも遭わないし、わずらわしい人間関係にも関わらずに済む。
でも、やっぱりずっと一人で家に閉じこもるのは限界がある。なぜなら人はその退屈に耐えられないから。
またパスカルはわざわざウサギ狩りに行く人を例に挙げて、その人にその目的であるはずのウサギを提供してみろと言う。
もちろんウサギ狩りに行く人はいい顔をしない。
なぜなら目的はウサギそのものではなく、狩りをするその「気晴らし」にあるから。
(ちなみにこれらが書かれているパスカルの「パンセ」はここまで冴え冴えなのですが、それから逃れるには宗教、それもキリスト教を信じることが道だということを延々と述べてて後半は正直読むに耐えません。)
この不幸の問題は現代の消費生活に当てはめてもよく分かる。
人々はそのものが欲しいのではなく、それを手に入れるということが重要。
ものには限界があるが、ことには限界がない。
飛びますが、第4章ではボードリヤールの思想を挙げながら、もの/こと=浪費/消費をあげて、人々は消費する限り永遠に幸せになれない。むしろ浪費をすべきだと著者は訴えます。
この消費こそ、現代人が苛まれてる最大の病だと。
それを逆手にとって、企業は需要が生まれる前から供給を開始する。
日本は特にそれが顕著な国だと思います。
エンターテイメントで溢れすぎて、本当にやりたいことなんて見えなくなってる。
供給側はどんどん次の手を送り込んできて、一層何がなんだかわからなくさせる。
「ありのままで」とか「オンリーワン」とか、曖昧模糊な「個性」を人々に押し付けて、「疎外」を感じさせ、ありもしない「本来」を取り戻させようとする。
最近はその思想が教育現場にまで浸透してきてるようで非常に恐ろしいと思います。
僕が大学に入って一番驚いたのが、作品の合評で、あまりにも「自分探し」という言葉を皆普通に使っていたことでした。
「自分探し」ってどういうこと?じゃあそこにいる自分は何なん?
これはどこかに「本来」の自分があるという誇大妄想がそういう発言をさせてるんだと思います。
僕は呑気だったのかそういうことを考えたことがなかったので、驚きました。
むしろ自分の場合は、自分が強すぎて、自分から離れたいという思いの方が強かった気がします。
作品のことを「表現」とか「自己表現」とか言う人もいますが、僕はこの言葉がすごく嫌いです。
作品というのは、「表現」なんてしようとしなくても、個人の思想や状況、環境、経験、歴史等々が、嫌という程に映し出されます。
「表現」というと、押し出すような感覚がありますが、そんなことしなくても出ちゃう。
かくいう自分も、大学の終わり、イギリスの留学が決まって、「日本人としての自分」という考えにはまってしまって、日本人らしい作品を作らなければというオブセッションに囚われたことがありました。
実際そうすればそうするほどどんどんやつれてしまって制作がまったく楽しくなくなってしまった経験があります。
途中で、いやそういうことちゃうやろ、と気づけたので、イギリス行った頃にはまたリセットできたのですが、この「らしさ」というのは非常に危ないと思いました。
らしくあろうとすればするほど無理が出てきて破綻してしまう。
そんなものは、勝手に出てきてしまうものだから、自然体でやっちゃえばいいんです。
話は少し逸れましたが、この章を読みながらそんなことを思い出しました。

また、第3章には暇との付き合い方に触れられています。
暇とは客観的な時間のことです。
それを退屈と思うか思わないかであくまで主観的なこと。
「暇」と「退屈」って混合されちゃうけど実はそこに大きな違いがある。
この章では、暇と退屈の関係を4つに分けます。
1「暇」だから「退屈」
2「暇」だけど「退屈ではない」
3「暇じゃない」し「退屈でもない」
4「暇じゃない」けど「退屈」
1と3はよくわかります。どっちもandで結ばれる正当なつながり。
2に関しては、例えば昔の貴族の生活が挙げられます。
彼らは「暇」との付き合い方をよくわかっていた。なぜなら教養があるから。
よく「アートはわからん」とかいう人がいますが、分かる努力したことある?と逆に聞きたくなります。
そもそも芸術は貴族のためのもので、庶民のものではありませんでした。
だから、芸術を理解するには教養がいるんです。これは仕方がない。
それを「敷居が高い」とか言われても、努力が足りないだけってなる。
例えば今の日本は格差社会は言われてるとはいえ、一億総中流の社会です。
誰にでもわかって、誰もが楽しめるものこそが正義。そこからはずれるものは悪。
その正義につけこんでるのが消費社会です。そして人々は退屈からますます逃れられなくなる。
教養を身につければ、その退屈を逃れる道が何本も見つけられる。
退屈と向き合うということは、自分と向き合うことにもつながる。
僕も今ではこんなアートオタクですが、大学入りたての頃なんて、現代美術はわからん!と言ってた側でした。
それが、重い腰を上げて色々見始めると本当に世界が広がって、今では世界中を回ってしまうほどです。まあ、これは不幸といえば不幸なんですが。。。それでも知れてよかったと思うし、人生が豊かになりました。これだけは自信持って言える。
ということで、皆さん教養を身につけましょう。
しかし問題は残った4です。かなり矛盾です。暇じゃないのに退屈。
それが第5章でハイデッガーの思想を挙げながら展開されていきます。

さて、ハイデッガーは退屈を3つに分けます。
1 何かによって退屈させられること。
2 何かに際して退屈すること。
3 なんとなく退屈であるということ。
詳しくは本書を読んでいただくとして、著者は最も大事なのは2だと説きます。
2に関しては、気晴らしと退屈が同義になってしまってるややこしいケースです。
先に挙げた4項目のうち一番謎だった4。「暇じゃない」けど「退屈」。
気を晴らすために、自分を投げ出し、自分自身を空虚にさせる。そのことに退屈を感じる。
この「退屈」こそ、実は我々が普段接している最も身近な「退屈」なのかもしれない。
そしてこの「退屈」との共存こそ、我々人類が築き上げてきた文明であり文化の形だ。
ちょっと飛びますが第7章の言葉。

「退屈と向き合うことを余儀なくされた人類は文化や文明と呼ばれるものを発達させてきた。そうして、たとえば芸術が生れた。あるいは衣食住を工夫し、生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら、人々の心を豊かにする営みを考案してきた。
それらはどれも、存在しなくとも人間は生存していける、そのような類の営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間が、そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」


そう考えると「退屈さん、ありがとう」という気持ちにすらなりますね。

戻って第6章では、ユクスキュルの「環世界」を取り上げてます。
著者も言ってますが、僕ら人間は様々な「環世界」を行きつ戻りつしながら生きています。
たとえば僕の場合、普段の自分とアーティストとしての自分がいます。
普段の自分はせっかちで、色んなものごとを効率良く取り込みたいと思っている。
よく「生き急いでる」と言われますが、まさにそういうスピードの環世界を生きています。
しかし、一度アーティストの「環世界」に入ると、全く逆で、物凄く遅い時間を生きられます。
たとえば一つの作品を成長させるのに、現実の時間で5年かかると思っています。
それでもアーティストの僕の中では全くこれは遅くもないし、普通です。
こうして大きく二つの世界を行きつ戻りつしてるのが今の自分だと思います。
そして、ものづくりの人はこういう「遅さ」といかに付き合っていけるかがかなり肝だと思います。
最後に山本耀司のインタビューを貼っておきますが、最後の最後に彼は「待つ体力」という言葉を使っています。
「待つ」というのは、とても静的な動詞ですが、これほど忍耐のいる動作もないと思います。
5年かかろうが10年かかろうが、作品が成長する様を「待つ」こと。
今、個人的にこの5年目を迎えようとしているので、改めてこの本を読んで「待つ」ことの退屈さと向き合う覚悟ができたような気がします。
また、何年か後に読み返したいなと思います。

「精神現象学」by G.W.F.ヘーゲル

ニーチェと前後しますが、哲学の巨人ヘーゲルです。
ということで読みたい人だけどうぞパターン。

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「この人を見よ」by フリードリヒ・ニーチェ

ニーチェの最後の著。
続きは以下で。

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「ツァラトゥストラはこう言った」by フリードリヒ・ニーチェ

ニーチェの最も有名な著。
物語調で読みやすいです。内容は激烈ですが(笑)
ってことで例によって読みたい人だけどうぞ。

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「悲劇の誕生」by フリードリヒ・ニーチェ

哲学第二弾。もう何のブログかわからない。
ということで、これも興味のある人だけどうぞ。

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「純粋理性批判」by イマニュエル・カント

新年一発目からカントって何事?何のブログ?って自分でも思いますがカントです。
「Book」というカテゴリーがあったことを自分でも忘れてましたが、久々に投稿。
あくまで僕の理解のためのメモです。詳しい人は読まなくていいです。誤解も多々あるかと。
ってことで興味ある人だけどうぞ。(とりとめもなく長くなってしまった)

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「失われた時を求めて」by マルセル・プルースト

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「20世紀最高の傑作」
「イギリスにシェークスピアがいるように、そしてドイツにゲーテがいるように、我がフランスにはプルーストがいる」
等、枚挙に暇のない賛辞を贈られる文学。それがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」。
「プルースト」という単語を検索するだけで、その名を冠した本の多さにびっくりします。実際こないだ古本屋に立ち寄ったら、「プルースト」がタイトルについてる本が20冊以上はありました。それだけ研究の対象にされてきたマルセル・プルースト。ここまで研究者を熱狂的にさせる文学者は後にも先にも中々いないんじゃないでしょうか。
以前から気にはなってて、実際ちくま文庫の全巻セットまで購入しつつも、その長さ(フランス語原著にして3000ページ以上、日本語訳では400字詰め原稿一万枚!)に、中々手をつけられずにいました。
現在ドストエフスキーからニーチェまで、新たな日本語訳に取り組んでいる光文社古典新訳文庫からも出ていますが、これは今後10年かけて訳していくという壮大なプロジェクトなため、とてもじゃないけど待てないので、重すぎる腰を上げて、井上究一郎氏の訳によるちくま文庫で読み始めたのが昨年末。
そこから今月(3月)頭ぐらいにようやく読み終わりました。実に3ヵ月かかった。。。
文学をこのブログで取り上げるのは初めてで、特に大したことは書けないけれど、やっぱなんか書いときたいな、ってことで所感を記事化することにしました。

まず、正直に告白すると、僕はこのタイトルから漠然とSFチックな小説だと思い込んでました。。。タイムトラベル的な。。。アホ丸出しです。なので、読みはじめから想像してたのと全然違って戸惑い半端なかったです笑
さすがに冒頭のマドレーヌのシーンは知っていましたが。。。
そんなアホ話はさておきそのマドレーヌです。
主人公が紅茶にマドレーヌをつけて食べたところから一気に過去の記憶へと遡り、物語は始まります。

水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のすべての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンプレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。(第一篇 スワン家のほうへより)

やはり、この小説の神髄は上記のような、「無意識的記憶」。
体が勝手に覚えてたってやつですね。
実際この手の記憶は視覚や聴覚よりも、嗅覚>味覚>触覚の順で強い気がします。
そしてこれらの感覚は一旦記憶されると死ぬ直前まで強固に残り続けるのです。

古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存在するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。(第一篇 スワン家のほうへより)

五感の中でもこの3つの感覚は非常に主観性の強い感覚です。
なので、中々文字を尽くしても語りきれない。
そこに果敢に挑んでいる点で、他の文学と一線を画している気がします。
執拗なほどに文字化していくその態度はほとんど狂気の沙汰です。
それゆえに、非常に読みにくいのも確かです。
なにせ中々想像ができませんからね。
それでも、その表現達は惚れ惚れするものも多く、小説を読んでいるというよりは、長い散文詩を読んでいるような感覚にしばしば陥りました。
僕が特に好きな表現はこれ。

何かがあたったように、窓ガラスに小さな音が一つ、つづいて、上の窓から人が砂粒をまいたかのように、ゆたかな量感の、さらさらとした落下、ついでその落下はひろがり、そろって、一つのリズムをおび、流となり、ひびきとなり、音楽となり、無数にひろがり、くまなく四面に満ちた、ー雨だった。(第一篇 スワン家のほうへより)

あとはこれ。

窓ガラスのなかの、黒い小さな森の上に、ふと私は雲の切れこみを目にしたが、そのやわらかいうぶ毛のような部分は、固定化した、死んだ、もう変化はしないようなばら色であって、そこから生えたつばさの羽と同色であり、画家が気の向くままになすりつけたパステル画の色彩のようであった。しかし、よく見ると、それは、気まぐれな、生気のない色彩ではなく、反対に、生きたもの、生きる必要をもったものであった。まもなく、その色彩の背後に、たくわえられていた光が、密集した。色彩は生き生きとし、空は薄肉色になった、その色を、私は目をガラスにくっつけながら、もっとよく見ようとつとめるのであった、なぜなら私はその空の色が自然の深遠な存在と関係があることを感じるからであった。しかし、線路が方向を転じたので、汽車はまわった、そして朝の景色は、窓枠のなかで、満点の星を散りばめた空の下、月光に青く照らされた屋根をもち、夜の乳白色の真珠母を塗りつけた恊働洗濯場をもった、とある夜の村と入れかわった。それで私が、さっきのばら色の空の帯が失われたことを悲しんでいると、こんどは向こう側の窓にふたたびそれが赤い帯となってあらわれるのを認めたが、それも二度目の線路のまがりかどで、また見えなくなった、そこで私は、間歇的な、かわるがわる反対側にあらわれる、移りやすい、深紅の、この美しい朝の断片を、よせあつめ、描きかえ、全体の光景、連続した画幅をつくりあげようとして、一方の窓から他方の窓へと走りあるいて時を過ごすのであった。(第二篇 花咲く乙女たちのかげにIより)

はたまたこんなの。

睡眠をはこぶ天馬は、太陽をはこぶそれとおなじように、変わらぬペースである気圏のなかを進行し、どのような抵抗もそれを停止させることはできないのであって、そうした規則正しい睡眠をつかまえるには、われわれとは無縁な何か隕石のようなもの(ある未知なものによって青空から投げられる?)が必要であり(そうでもしなければ、睡眠はどうしてもとまらず、永久におなじ運動をつづけるだろう)、そうすることによって、はじめてその進行に急旋回をとらせ、睡眠を現実の方向に立ちかえらせ、一瀉千里に、生命の圏内につれもどしーそうした圏内に近づくにつれて、睡眠者は、生命から発する雑音を漠然と耳にし、やがてそれは歪曲されながらも次第にききとれるまでになりーそのようにして、睡眠を、突然覚醒の地域に着陸させる。そのときわれわれは、そんな深いねむりから、ある薄明のなかにめざめるのだが、自分が誰であるかを知らず、自分はまだ何ものでもなく、生まれかわったように新しく、何にでもなれる状態にあり、脳は、それまで生きてきたあの過去というものをふくまず、空虚になっている。それがさらにひどく感じられるのは、おそらく、覚醒の着陸が乱暴におこなわれるときであろう、すなわち忘却の衣に被われた睡眠の観念が、覚醒につれて徐々に立ちかえるゆとりのないときであろう。そんなとき、われわれは真暗な嵐をつきぬけたような気持ちになる(もっとも、そんなときのわれわれは、われわれという語にさえ相当しないのだが)、とにかく、内容の空白な一種の「われわれ」が、そうした暗黒の嵐のなかから、思考力をもたず、からだを横たえたままで、出てくるのだ。(第四篇 ソドムとゴモラⅡより)

この詩情を崩さないように訳すのは相当大変だったと思います。
特にフランス語というのは、独特な韻律があるので、フランス語独自の表現が多いんだろうな、と読みながら想像できました。もろに訳し方に混乱が出てるところも多々あり、訳者の方の苦労を垣間みました。
特に主人公が人や土地の名前にすごく執着していて、これらにイメージを与えるのですが、僕にはなんのこっちゃな世界感でした。
たとえば「ゲルマントのあの『アント』antesというシラブルから出てくるオレンジ色の光」とかなんのこっちゃですからね。。。

さらにこの本を読んでいくのに大変なのが、物語と聞いて思い浮かぶあの「起承転結」の概念が非常に希薄で、ずーっと同じ調子で続いていく。いまいち盛り上がりもないし、サロンなんていつまでたっても終わらないし(まるでスラダンの山王戦のように。。。)普通の物語と同じノリで読むときついです。
ここにこの小説の独自性があるといえばあるんですがね。
つまり、ドストエフスキーのような、当時主流だったロマン小説と言われる、あの「神の目」から見られた世界とはちがって、あくまで主人公が見た世界のみを描いているので、そこまで大きな事件もありません。
事件と言えるのは、そこかしこで勃発する同性愛というテーマ。
こんなに同性愛者がいるのか!?ってぐらい主人公の周りは同性愛者(バイセクシャルも含む)だらけ。
その苦悩っぷりはおもしろいと言えばおもしろいですが。。。
この辺も当時は毛嫌いされた部分でもあったんでしょうね。やはり当時同性愛というのは中々にタブーだったんじゃないでしょうか。それをこんなにふんだんに。。。
あとは、この物語全体に通じる愛情表現がどこか歪んでるんですよね。
愛とは嫉妬であると言わんばかりに、凄まじいジェラシーが渦巻いています。

また、プルーストの芸術感がところどころに表明されてるのもおもしろいですね。

偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それをもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。(中略)一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。そんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。その独自の美にこめられた力のために人の目につきにくくなり、知られずに残っていたあの楽節、それがいよいよ最期にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最期のことになるだろう。少し奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものは(中略)公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。ベートーヴェンの四重奏曲は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲それ自身なのである。人々がいう後世とは作品の後世である。作品自身がその後世を創造しなくてはならないのだ。(第二篇 花咲く乙女たちのかげにより)

そしてドゥルーズが「文学器械」と呼んだのが後半の部分。

彼らは、私の読者ではなく、自分たちの読者であろう。なぜなら、私の本は、彼ら自身を読む手段を彼らに与えるからである。その結果、私は彼らにたいして、私をほめることも、私を悪くいうことも望まないだろう。ただ、私が書いた通りか、彼ら自身のうちに読むことばが、私が書いたものとおなじかどうかを、私に言ってほしい。(第七篇 見出された時より)

大作家は、あの本質的な書物、真実な唯一の書物を、一般に通用している意味で、「発明する」必要はない、なぜなら、それはわれわれ各人のなかにすでに存在しているのだから。それを発明するのではなくて、それを翻訳すればいいのだ。作家の義務と努力は翻訳者のそれなのである。(第七篇 見出された時より)

とまあ、こんな感じで、プルーストが半生を賭して散りばめた彼のエッセンスが、決して強くはないものの、常に鳴り響く通低音のように、この超長文の中に染み渡っています。
なので、単純にストーリーを追うといった形で読むのではなく、詩を読むようにじっくり何年もかけて忍耐強く読むのが正しい読み方なのかも知れません。
また、本当にたくさんのプルースト関連書籍があるので、どれか読んでみるのもいいかもですね。僕は以下を読みました。参考までに。


テーマ : 本の紹介
ジャンル : 学問・文化・芸術

「マチスとピカソ」by イヴ=アラン・ボア

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ずっと積ん読だった「マチスとピカソ」を読了しました。
著者のイヴ=アラン・ボア(以下ボア)は、2010年のニューマン展の時に来日してますね。この時のカタログにもテキストを寄せてます。
また、昨年日本でも発売されたばかりの「アンフォルム」という本は、ロザリンド・クラウスと共同でキュレーションした展覧会のカタログ。
実はこの本読んで、ボアにすごい苦手意識ができてしまってて、故に積ん読。
さらに、直前にクラウスの「ピカソ論」を読んで、これもほとんどピンと来なかったから、読み始めるのは中々腰が重かったです。

しかし!
読み始めたら止まらないぐらいおもしろくて、最後泣きそうになるぐらい感動。
やっぱ僕クラウスが苦手みたいです汗

それにしても今更「マチスとピカソ」って。。。って感じですよね。
もう腐るほど聞かされる二人のエピソード。
ほとんど賞味期限切れみたいなこの話題にどう切り込むんかいなと思ってましたが、めちゃくちゃ刺激的で新鮮な内容でした。

マチスの言葉です。
「私は今まで他人からの影響を避けたことがないのです・・・。他人からの影響を避けたりするのは臆病で自分に誠実ではないからだと考えてきました。私は芸術家の人格というものは、ほかの人格と戦わせられるときに、受けるべき苦闘を通じて発展し、自己を確立するのだと信じています。もしこの戦いが破壊的なもので人格が屈服してしまうとしても、それが運命なのです。」

この本は、ひたすらマチスとピカソのお互いの影響関係を実際の作品から論じていくというもの。
冒頭のマチスによる「石膏像のある静物」(1916)とピカソによる「静物 胸像、鉢、パレット」(1932)の対比からいきなり刺激的です。
本当に構図やモチーフがほとんど同じ!
さらには、表紙のマチスによる「夢」(1940)とピカソによる「黄色い髪の女」(1931)なんてほぼ一緒。
こうして、二人の作品が見事に影響し合ってることが作品から紐解かれていきます。
特にピカソは波乱の人生なだけに、その半生から絵の読解が成されることが多いのですが、こうやって、絵そのものから紐解かれていくのは、とても爽快というか、これが本来のあり方やろ、と思います。
それから、別に二人の絵が似ているから揚げ足を取るようにパクりパクられっていう関係に仕立て上げるのではもちろんなくて、お互いがお互いを常に意識し尊敬し合い必要とし合っていたということがものすごく伝わってきてとても美しい物語を読んでいるようです。
そうした二人の友情エピソードもたくさん盛り込まれていて、改めて「マチスあってのピカソ」、「ピカソあってのマチス」なんやなぁと思い知らされました。
それだけに、マチスが死んだ後のピカソの喪失感たるや想像を絶しますね。
ピカソはショックすぎて葬式にも出席しなかったらしい。
この本の締めくくりに置かれた、マチスの死後に描かれたいくつかのピカソの絵は、明らかに逝ってしまった親友のその不在を埋めるかのように、マチス的要素(うす塗り、のっぺらぼうの顔等)が如実に表れているのには本当泣きそうになってしまう。
アートはオリジナリティがなんぼと思われがちですが、こうやって、正面からお互いの絵画を衝突させてきた二人の姿は見ていてとても気持ちがいいです。
中にはマチスがピカソの絵をそのまま模写してる資料とかもあって驚きでした。
マチスも云うように、他人からの影響は避けるべきではないのですね。

この本では主に、この二人の絵画の類似性を論じていますが、逆に大きな相違点について語る第一章の「異なる言語」はとても興味深かったです。

『事実、マチスは対象やモチーフの全存在、彼を絵画やデッサンへの衝動へかりたてる物質性を必要とする。モチーフに「同化する」ために全感官を巻き込むことを必要とした。雇ったモデルを題材に描くときは、彼の「目はモデルの1メートル以内に、ひざはモデルのひざの範囲まで」とても近づかなければならなかった。聖トマスのように、彼は自分の目しか信じられず、そこから印象主義への不信が生じたのだ。
(中略)
ピカソが重視するのは同化することではなく、解釈することである。何かを描くために、ピカソはそれを別のものとして最初に「見」なければならなかった。この変換の過程がきわめて顕著なのは肖像画である。ピカソが数えきれないぐらいデッサンや絵画に描いたフランソワーズ・ジローは、彼のために二回しかポーズを取っていないことを覚えている。(中略) この隠喩的な「として見る(seeing as)」ことはピカソ芸術の本質である。』

また、同じ章のボアが「マチスシステム」と称するテキストもおもしろいです。

『マチスは「スケールのためにサイズを超越す」べく、拡張し、膨張する芸術を求めた。フランク・ステラがかつて言ったように、マチスの絵というのはいつも実際より大きいものとして思い出される。マチスのスケールは、少数の平坦な平面にもとづいており、実際のカンヴァスのサイズがどんなものであっても、常に大きい。この拡張する感覚は、透視法やモデリングといった空間表現の伝統的な手法はすべて使用できなくする。伝統的な手法では絵画を奥行きによってくり抜くので、スケールの横の広がりを損なう。マチスの絵画の最上のものは、爆発寸前の風船のように最大限まで張り詰められている(ピカソはこのことをよく知っており、「マチスは大声だ」とよく言っていた)。この全体にゆきわたる緊張感のみなぎりは、ピカソ芸術に勝るとも劣らず過激なマチス芸術の経済性によって高められる。(絵の中で有益ではないものはなんでも有害なものだ)。それは絵画平面全体における等質化の、また力の分散の産物である。観者の視線は、どこにおいても絵の特定の部分にとどまることを禁じられている。画面のこのオール・オーヴァーな概念、それ自体が質と量の等式のひとつの機能を果たしているものから、マチスの表現理念が明らかになる。』

この春に見たマチスの「赤い部屋」は確かにものすごく広がりのある絵でした。
以前カプーアの記事でも書いたんですが、色というのは作品にとってとても重要。
最もセンスの試されるところであり、それを考えるとやっぱりマティスを超える芸術家ってどこを探してもいないような気がしてきました。
もちろんイヴ・クラインやニューマン、カプーアなど、卓越した色のセンスを持っている作家が何人かいますが、それでもほとんどが単色であったりしますよね。
フォーブ(野獣)のようだと称されたマティス絵画ほど、たくさんの色を使いながら、色の可能性を最大限まで引き出してる絵画は他にないように思えます。
だから、晩年の切り絵にしても、マチスだからこそできる技なんですよね。
その点でも、カラー図版がたくさん載ってるこの本はすばらしいです。
でも、この本には彼のドローイングも多数収められてますが、鳥肌が立つぐらいすごい。
ピカソかマチスどっちが本当の天才?って聞かれたら間違いなくマチスでしょうね。
もうちょっと、線にしても色にしても人間業とは思えないです。
2004年の上野でやってたマチス展は本当にすばらしいものでした。
僕が今まで見てきたすべての展覧会の中でもかなり上位の展覧会でしたね。
あれ見てからマチスの見え方相当変わりました。
この本読みながらあの展覧会また思い出しちゃいました。
また大規模なマチス展とかやってほしいな。まとめてたくさん見たい。
彼の手がけたヴァンスのロザリオ礼拝堂はいつか必ず行きたいですね。

この本は、キンベル美術館で1999年に行われた「Matisse and Picasso : A Gentle Rivalry」展の為に刊行されたカタログの日本語版だそうです。なんて豪華な!
この展覧会見てこの本読んでたらさらに理解深まったでしょうね。観たかったな。
ていうかキンベル美術館自体ルイス・カーンの代表作なので行ってみたい。
近くには安藤忠雄の美術館もありますね。
とにかくとてもすばらしい本でした。少し値は張りますがおすすめです。

最近出た「マティス: 知られざる生涯」も気になります。
その前に絶賛積ん読中の「マチス 画家のノート」も読まねば。




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ジャンル : 学問・文化・芸術

「描写の芸術ー十七世紀のオランダ絵画」by スヴェトラーナ・アルパース



17世紀オランダ絵画を論ずる上でストイキツァの「絵画の自意識」と双璧を成すであろう、スヴェトラーナ・アルパースの「描写の芸術」。
こちらももちろん絶版です。。。とほほ。
いつも借りてる図書館にも置いてなくて、わざわざ他館から取り寄せました。

まず序文で語られるのは、これまでの美術(絵画)史があまりに言語的に認識しようとしてきたおかげで、視覚体験としての側面を犠牲にしてきたということ。
この図像学的方法は、イタリアの美術史の創始者と言われるヴァザーリやアルベルティなどから伝統的に受け継がれてきた手法であり、あまりに偏り過ぎだと著者は批判します。
同時代のイタリア以外、特にオランダを中心とする北方の絵画を論ずる際に、この手法はほとんど効果がないのではという指摘で、実際昔から言葉に溢れたイタリア芸術に対して、オランダ芸術に関する当時の言説はほとんど残されていない。
「実質的にイタリアで制作された作品だけが真実の絵と呼べるものであり、それゆえにこそ、われわれは優れた絵をイタリア絵画と呼ぶのである。」なんていうミケランジェロによる証言もあるぐらい、当時の西欧の美術=イタリア観は絶対的なものがあり、イタリア以外はあくまで「周縁」と呼ばれる時代が長く続くのが、この美術史感を鍛えた要因なのかもしれません。
イタリアとそれ以外という構図は、「絵画の自意識」の中でもなんとなく垣間見えていましたが、ここまではっきりと書いてはいませんでした。
この辺りは賛否分かれる部分ではあるでしょうが、そう言われてみればそうかも、という説得力を感じます。

第一章では、そんな周縁であり、言説もほとんど残されていない当時のオランダ絵画における、唯一といってもいい位貴重な証言を残した人物として、コンスタンティン・ハインヘンスを取り上げます。
彼は、レンブラントをその初期から評価していたことでも知られ、彼の「自伝」はこの時代のオランダの文化を表象していく上で非常に重要な資料となります。
特に彼は、カメラオブスクーラに非常に強い関心を抱き、自宅に所有していたほど熱狂していたらしい。
オランダ絵画とカメラオブスクーラに関しては、フェルメールを頂点として、数多なる論説がこれまで繰り返し指摘されてきたけれど、本書では、「なぜ」カメラオブスクーラがこれほどオランダ絵画にその影を落としたのかが語られます。
イタリアでは、アルベルティの「絵画論」を引くまでもなく、画家たち自身が作り出す遠近法に力が入れられ、カメラオブスクーラのような自然に任せてしまうようなやり方は邪道だと揶揄されあまり使われなかったそうです。
この態度の違いは、まさにその描画態度の差異を浮き彫りにしています。
オランダ絵画を見ていると、イタリア絵画の読み解かれることを前提とした能動的に観客に語りかけてくる絵画に対して、オランダ絵画は、あまりにあるがままであっけらかんとしていて、ただ見られるだけの受動的な態度が見受けられます。
この受動的態度とカメラオブスクーラの自然から与えられる遠近は合致したのかもしれません。
視覚は人間が主体にあってこそ、というイタリア的観点とは対照的に、オランダ絵画は、時に顕微鏡のように細密になり、時に望遠鏡のように広がるという相対的なものとして視覚を捉えていました。
それ故オランダでは、受動的態度を積極的に遂行すべく(変な言い方)、様々なレンズの探求が行われたそうです。

続く二章では、ヨハネス・ケプラーの視覚モデルと北方絵画の関係性を説いていきます。
ケプラーの視覚モデルとは、デカルトの本の挿絵にもなった有名なモデルで、ストイキツァの「絵画の自意識」でも取り上げられていました。
アルパースは取り上げていませんが、やはりこの絵の最も特徴的な点は、すべての光景が映し出される網膜のさらに後ろにそれを観察する人間が描かれているところだと思います。
つまりこれは、網膜の裏側にまで回り込んで、見えている風景をつぶさに観察し描写しようとする北方の画家たちのその異様とまで言えるような描写癖をも描いているように思えます。
さらにケプラーは、この網膜上に映るイメージを絵像(ピクトゥーラ)と呼び、決して映像と呼ばなかった点が興味深く、ここでもまた絵画、特に北方のありのままを描ききる絵画を意識していたのではないかと話は進んでいきます。
そして北方の絵画には、素描が極めて少なく、むしろ絵画と素描の一致にこそ北方絵画の特質があるのではないかと。実際フェルメールの素描は一枚も発見されておらず、彼は意識的に絵画と素描の間の壁をなくし、素描で通る観察するというプロセスをいきなりキャンバスに表したのではないかと言われています。
素描と絵画の大きな違いは、やはり素描は観察による結果で、絵画は画家自身の表現による結果であるということだと思うんだけど、北方絵画にはその区別は極めて薄く、その逆にイタリアではその壁は非常に厚く、アルベルティの「絵画論」でも、人間があくまで主体であり、その特権化こそが目的であると読めます。彼の場合、絵画は物語であり、北方画家たちにとっては描写する以外の何者でもなかったのでしょう。
しかし、イタリアにも北方画家たちに近い立場の画家がいました。
レオナルド・ダ・ヴィンチです。
彼ほど世界を見ること、知ること、そして絵として描くこととの関係に耐えざる思いをめぐらせた芸術家、あるいは著述家はおそらくいないだろう、とアルパースも認めています。
実際彼は北方画家たちを魅了してやまないカメラオブスクーラを考案した最初の人ですからね。
「画家の精神は鏡のようでなければならない」という、彼の言葉にも表されている、器械としての画家のあり方はまるで北方画家たちと瓜二つです。
しかし、彼の場合、南方の人間主体の絵画モデルと、そうした北方風絵画モデルとがないまぜになり、どちらともつかない魅力が発揮されのではないでしょうか。
また、章後半の南方的遠近感と、北方的遠近感の違いはおもしろかったですね。
南方画家たちの視線はあくまで絵画の外にあるけれど、北方画家たちの視線は絵画の内にあり、それらの視線が一つの空間の中で様々なベクトルを生み出しています。
故に、北方絵画には、鏡などで、身体のあらゆる角度から描かれた図が登場します。
最もそれがよく表わされているのが、ヤン・サーンレダムの銅版画「芸術家とモデル」です。
そこにはモデルの身体と、それを映す鏡と、画家が描くモデルの身体という3つの角度からなる身体が一つの画面の中で描かれています。
一方南方の絵画では、こういう迂回路はせずに、同じポーズをした人物を2人別々の角度から描いたり、マニエリズムに代表されるように、あり得ないポーズによって、一つの身体に複数の視点を無理矢理ねじ込む手法がとられます。後にセザンヌやピカソがやった手法もこちらですね。
また、先のサーンレダムは大聖堂の建築を描いたことでも知られますが、その描き方がまた不思議で、北方の画家らしく複数の消失点からなるアーチが描かれ、サミュエル・ファン・ホーホストラーテンによる「覗き箱」シリーズにもそれは顕著です。
これは、奥の一点を結ぶ一点透視図法を駆使する南方の画家たちとは対照的です。
ここで「ラス・メニーナス」がこういう観点から挙っているのがおもしろいですね。

第三章では、北方の画家たちが対象に向ける注意力と職人技に言及されています。
これは先日読んだばかりの「知覚の宙吊り」とも通じるお話ですね。
ただし、この第三章は個人的にあまり注意を引きつけられなかったので割愛。

そして続く四章、「オランダ絵画における地図制作の影響」と五章「言葉を見ること」は非常におもしろかったですね。
しばしば指摘されることですが、17世紀オランダにおいて、当時の地図の存在は非常に重要な「平面」と認識されます。特にオランダでは地図の制作は盛んに行われ、今や世界地図の基礎をなすメルカトールもこの時代のオランダ人。
フェルメールの絵にもいくつか地図が示され、実際それを制作する地理学者と天文学者まで描いています。
そしてフェルメールの代表作でもあり、この本の表紙にもなっている「絵画芸術」はまさに17世紀の地図を語るのに示唆に富んだ作品。
この本で指摘されていておもしろかったのは、この「絵画芸術」に描かれている地図の上に「描写」を意味する「DESCRIPTIO」と書かれていること。当時の「描写」とは決して視覚的なものではなく、あくまでラテン語のscribo、またはギリシア語のgraphoからくる言葉で、共に「書く」ことを意味する単語でした。
絵画を「描写する」というのは、全くお門違いな使い方であって、本来ならギリシア語のエクフラシスekphrasisという言葉を使うのが一般的でした。
しかし当時のオランダ人にとって、もはや詩人が言葉をつかって表現するのと、画家が筆を使って表現することに境はなく、どちらも「描写」という言葉が使われました。
そして地図制作においてはまさにこの「描写」という言葉が堂々と使われ、ホーホストラーテンをして「優れた地図はなんとすばらしいものか」と言わしめたほど、地図の存在は画家たちにとっても大きな影響を与えていくこととなります。
この地図とオランダの画家たちが描いた風景画の関係は当時のオランダの土地を巡る制度にも由来しているとアルパースは指摘します。
というのも、当時のオランダでは、50%以上の土地は農民自身が所有し、領主の力は弱く無きに等しかったそう。これは領主が国土のほとんどを所有していたイギリスとは大きく違い、地図制作に関わる測量を比較的自由に行うことができたという政治的な背景も影響しているとのこと。
オランダって他の国と今でも多くが違う制度がありますが(マリファナ、売春婦の合法化など)、この当時からおかしかったんですね。。。
ここで様々な地図をめぐる画家たちの風景画が紹介されますが、中でもヤン・クリスターンスゾーン・ミッケル(長)の「アムステルダム眺望」がすごい。。。まるで飛行機に乗って上空から描いたような絵で、なんと地上に落ちる雲の影まで描いている!!
また注の中のモンドリアンと、この時代の地図制作絵画たちを結びつける指摘も中々おもしろいですね。
「モンドリアンのいわゆる抽象表現は、伝統との中断ではなく、むしろわれわれが規定しようとしている地図的伝統を後継しているものではないだろうか」(p394)

そして五章ですが、この「描写」の元となった「書く」という行為に関して、当時のオランダ絵画には多くの文字が描かれている点を指摘します。
例えばものすごく有名な、ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻」やピーテル・サーンレダムの「ユレトレヒトの聖母教会内部」などにも文字は表れていて、どちらも画家の存在を示す書き込みがされています。
この書き込みは、ほとんど絵画の内容に関係がなく、単に「画家自身がそこにいた」ということでしかなく、これは事実を描写しているに過ぎない点がおもしろいですね。
一瞬中国や日本画における、絵と文字の境のなさみたいなことを思い浮かべたんですが、それらは絵と文字が呼応しているのに対して、ここオランダではそれらが全く関係がないんですよね。
南方の絵画が物語的と呼ばれるのに対して、北方の絵画が描写的と呼ばれるのはこの辺に大きな特徴があります。
その点で、ストイキツァの「絵画の自意識」でも散々紹介されてましたが、この本でも出るわ出るわ絵と文字に関する変な絵たち。
7.5ポンド以上もする重い大根がとれたぜ!と紹介する絵とか、まるで額縁に挟まれた手紙のように「拿捕されるロイヤル・チャールズ号」を記述したイェロニムス・ファン・ディーストの絵とか。。。

こうして字や図とほぼ変わらないテンションで描かれてきたまさに「描写の芸術」たちを紹介してきた本書。
最後はフェルメールやレンブラントに特に重点を置きながら書いていますが、やはりレンブラントはこの枠に納めるのは中々至難の業のよう。
本書では、やはり「描写」ということでひとくくりにはできないものもいくつか登場してきたように思います。
当時の絵画を漫画の吹き出しのように会話そのものが描かれているといった指摘も中々苦しいと個人的に感じましたね。
ただ、「描写」というのは、17世紀オランダ絵画を語る上で、やはりとても重要なキーワードだし、ここに正面切って立ち向かっていった著者の意気込みを感じる良著だと感じました。
ストイキツァの「絵画の自意識」と合わせて是非復刊して欲しいですね。

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「知覚の宙吊り─注意、スペクタクル、近代文化」by ジョナサン・クレーリー



ジョナサン・クレーリーの「知覚の宙吊り」と「観察者の系譜」を読了。
彼の単著としてはこの2冊しかありません。
寡作ながら視覚論を考えるには今や避けて通れない論客と言えるかもしれません。
とはいえ、もう読むのに滅茶苦茶苦労しました。
この2冊に言えるのは、問題が非常に広範囲に渡っていること。
てっきり美学に終始した本かと思ってたら大間違い。
心理学から精神医学、哲学や社会学や行動学、現象学、経済学。。。。
あらゆる学問が織り交ぜられています。
「観察者の系譜」→「知覚の宙吊り」という順番で読みましたが、これは正解でした。

「観察者の系譜」は、教科書的な本です。
視覚論にすんごく興味のある人以外が読んでもほとんどおもしろくないと思います。
19世紀の視覚に関する知識の革命、つまり、デカルトあたりが論じていたカメラオブススクーラのような透明モデルから、次第に解明されていく視覚(知覚)の不安定さ(散漫さ)をどう解消していくかの道程がこれでもかと言わんばかりに丁寧に書き連ねられています。
1冊持っておいて、この辺りどういう順番やったっけ?という感じで、後で参照したりするのにはいいかもしれませんね。
なんしか、本としてのおもしろさは個人的に感じられませんでした。

しかし、「知覚の宙吊り」になると、この「観察者の系譜」で培われた歴史感が大いに生かされて、はるかにおもしろい読み物と化します。
テーマを近代の「注意」に対する考え方に絞り、その具体的モデルをマネの「温室にて」スーラの「サーカスのパレード」セザンヌの「松と岩」という3つの作品に託し、さらに1879年、1888年、1900年という具体的年代に立脚しながらその背景がつづられていきます。
それにしても、やはり広範な情報がこの本の中でも溢れまくっていて、あっちこっちに連れて行かれる感覚があり、個人的には「注意散漫」になってしまった感は否めません。
特にスーラを扱った第三章。この章だけで116ページもあります。
マネの第二章が66ページ、セザンヌの第四章が76ページに対してあまりに多いページ数。
それ深読みすぎやろ!ってのが多かったのも第三章。
特に「サーカスのパレード」の左側の木が、当時話題だったヘルムホルツの「生理光学論」に出てくる網膜血管を表す樹木モデルの暗示ではないかという指摘はちょっとやりすぎだと思うんですが。。。
原注がやたらに多いのもこの本の特徴。なんと169ページもあります。。。
ちなみにこの第三章には286個もの注がついているという鬼畜っぷり!
(ちなみに第二章には128個、第四章には178個でした)
また、当時登場してきた様々な視覚を扱う器械が登場するんですが、どれがどれかわからん!
カイザーパノラマキネトスコープステレオスコープゾートロープタキストスコープフェナキストスコーププラクシノスコープ、、、
こういうのって、いくら言葉で説明されてもよくわかんないんですよね。。。
まあ、その中でもエミール・レイノーによる、プラクシノスコープの図像とスーラの「サーカス」の類似の指摘は興味深かったですね。
スーラの絵って確かにこういうアニメーションがかかった図像がいくつかあります。
最も有名な「グランド・ジャット島の日曜日の午後」はとても静的なイメージですが、どこかアニメっぽいんですよね、描き方が。
スーラと言えば、光学的な捉えられ方の方が先攻して、描かれているモチーフ自体に深く切り込んだ論考ってあまり読んだことがなかったので新鮮でした。
あと、これまであまり取り上げられることの少ないマネの「温室にて」を取り上げているのもおもしろい。
この女性の表情と当時解明されていく病理学とが結びついていくのはすごいですね。
それでもやはりセザンヌの考察が個人的には一番興味深かった。
GWには国立新美術館のセザンヌ展観に行こうと思ってるので、その予習のいい導入になりました。
セザンヌの絵ってやっぱり難しいと思うんです。どっからどう観ても。
パースが狂ってるとか、リンゴがこぼれ落ちそうとかそういう解釈だけでは済まされない何かがあの絵の中に濃縮されていて、パッと観ただけではわからず、かといって観れば観るほどわけがわからなくなってくる絵だと思います。
ここでちょっと長いですが引用します。

彼が発見したのは、知覚はその形成過程以外のいかなる形態もとりえない、ということである。もはや、移りゆく世界の外観を記録することが問題なのではない。近くそのものの不安定さに直面し、そこに居を構えることが問題となるのである。セザンヌはおそらく誰よりも洞察力鋭く、知覚に根源的な、それ自体との差異を認識することで、注意のパラドクスを明らかにしたのである。マネが部分的に直感していたものが、セザンヌの実践において実り多い結果をもたらすこととなった。つまり、セザンヌの創造的な発見とは、いかにひとつのものを熱心に見ても、そのような凝視は、ものの現前、ものの豊かな無媒介性をより完全で包括的に把握することにはつながらなかったということである。むしろ、凝視することは、かえって知覚上の分裂と喪失を導き、認識可能な形態としてものを見ることを不可能にしたのである。こうした視覚の崩壊は、それまで知られることのなかったさまざまな力の中へと組み込まれていった。そこでは、注意は絶えず制限されつつ持続し、必然的に散漫な状態へと分散していった。もはやこうした状態では、ひとつの、あるいはさまざまな事物の布置を把握する為の指標と目されてきたものは通用しなくなる。同様に、視覚を孤立点へと強く固定することで生じる明晰性は、その明晰性の溶解に通じており、いかなる固定化もこのことを回避することはできないのである。セザンヌにとって注意力に固有のこの溶解は、世界の徹底的な脱象徴化を裏づけるだけではなかった。それはまた、従来考えられてきたような「外的」事象と、感覚とのあいだの一連の関係に絶えず調整を加え、そこにひとつのインターフェイスを生み出すものだったのである。このようにして彼は注意力を研ぎ澄ますことで、かえって、知覚に不変性を与えるいかなる前提をも、まっさきに打ち消してしまったのである。

後期セザンヌにおける、あの薄塗りの連続は、まさにこのことを示しているように思います。
つまり、彼は、その視線をある一点に注ぎ込むのではなく、あえて視線をきょろきょろと動かすことで、世界を綜合物として捉え、ひとつのキャンバスに組み込んでいったのではないかと。
一見散漫にも見える彼の絵ですが、そこには世界を「必死で」見据えようとする彼の止めどない視線を感じることができるのです。

んー、全体的に勉強不足が諸に仇となりました。
もう少し勉強してから再読してみたいですね。
この流れでハル・フォスターの「視覚論」あたりに流れ込むべきですが、そろそろセザンヌ系の本をユリイカを含めて読み始めなければ。
てか、個人的にMIT系の本って苦手です。あの言い切る感じがどうにも。。。

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「ピュグマリオン効果」by ヴィクトル・I・ストイキツァ

ストイキツァ続きます。

 かつて-二世紀あまりまえのことー芸術が美術館へと追いやられたとき、その追放を達成したのは、ひとつの禁止であったー「作品に手を触れないでください」。
 これはおそらく、唯一正しいものとなった作品との接し方、視覚体験を侵犯するあらゆる試みを防ぐための一方法であり、純粋な静観という手段とは異なる仕方で<芸術>と<生>とを結びつけようとする試みを、ことごとく拒絶するものであった。「触れるな」という厳命は、「芸術作品」においてイメージが物(chose)に勝利した帰結であり、その非現実性としての側面が聖別された結果であった(そして今もなおそうである)。イメージとはー周知のとおりー世界の残りの部分からは区別される。それは実在しないのだ。「作品に触れること」、それはイメージを事物(オブジェ)の段階へと後退させることであり、創造界の秩序に属するイメージの本質そのものを損なうことなのである。


本書はこの非常に印象的な文章から幕を開けます。

ピュグマリオンとは、非常に卓越した技術をもった彫刻家ピュグマリオンが、ついに自分の作品が本物の人となり、恋に落ちるという伝説で、これをシュミラークルの問題であると提起します。
シュミラークルとは、プラトンの時代から語られてきた、ミメーシス(模倣)から生み出される「イメージーイコン」を超え、実存するファンタスムのこと。
そこから歴史的にこの物語の解釈を巡っていくのですが、いかんせんこれは僕の興味から少し遠いかな、という感じ。
というか、このピュグマリオンを起点として、様々な作品に展開していくのかと思ってたら、結構ずっとピュグマリオンのことに終始していて予想と違いました。
今回も図版を多く用いて、ストイキツァお得意の弁証法が繰り広げられます。
この本で最もはっとしたのは、エティエンヌ=モーリス・ファルコネの「自らの彫像の足下にひざまずくピュグマリオンを表した大理石増、彫像が生命を得た瞬間」(1763)と、同じく「水に入るニンフ」(1757)ですね。
それまでは絵画や版画、はたまた舞台などで視覚的に伝えられてきたピュグマリオンを、そのど真ん中の彫刻で表現したファルコネ。これは、メタ絵画ならぬメタ彫刻です。
両作品とも台座が二重に登場しているのがとてもおもしろいですね。
ただ、最後まで期待していた広がりを見せられなかったのは残念。
最後はヒッチコックの「めまい」が現れますが、やや唐突な印象。
冒頭の序文に関する考察もやや浅め。というかあれなんやったん?って印象。。。
ピュグマリオン伝説を通してもっと芸術需要の変遷とかにも触れられたんじゃないかな、とも思う。
本書はピュグマリオンに関してではなく、ピュグマリオンが与えた効果をもっと広汎に描いて欲しかったな。
最後の章でバービー人形とかにも触れてるけど、それならピノキオとか、アニメーションにももっと触れるべきだったと思う。アトムとかもそうやね。
最後に訳者が後記として書いてた、日本の甚五郎と梅ヶ枝の話はおもしろかった。これもまさに日本版ピュグマリオン!
個人的にちょっと期待はずれでした。


さて、ストイキツァラストで「絵画をいかに味わうか」も読了。
ストイキツァの本で邦訳されているものとしてはあと、「幻視絵画の詩学―スペイン黄金時代の絵画表象と幻視体験」「ゴヤ―最後のカーニヴァル」がありますが、個人的にスペイン絵画には興味薄いので、また今後折に触れて読んでみたいと思います。
で、この「絵画をいかに味わうか」ですが、こちらはなんと日本でしか刊行されていません。
ストイキツァが岡田温司さんらに招かれて日本を訪れた際に書かれた貴重な自伝などがおさめられていて、日本の読者としては非常にうれしい本です。
ストイキツァは当時社会主義国家だったルーマニアに生まれ、大学時代の奨学金でイタリアへ渡り、その後パリ大学にて博士課程を修了。留学後帰国し、自国の閉ざされた文化と闘いながら、ほとんど亡命に近い形でスペイン人の奥さんとドイツへ渡り、現在スイスで教鞭をとっているという凄まじい経歴。。。
これほどの広汎な知識は、様々な言語を操り、原文であらゆる書物を読むことができたのと、西欧の中心からはずれた「周縁」で育ったからこそ見渡すことのできる視点によって彼の研究が成されていることを知り、ますます興味がわきました。もう少し早ければ日本での講演も聴けたのにな。。。またやってほしい。
この自伝の他、短編エッセイがいくつか収録されています。
この本のタイトル「絵画をいかに味わうか」という言葉は、ティツィアーノの「ウェヌスの祝祭(The Worship of Venus) 」(1518-1520)に捧げられたエッセイのタイトルでもあります。(この絵はこの本の表紙にもなってます。)
「絵画」という言葉と「味わう」という撞着語法のような言い回しですが、この本を読んでいると、絵画は観る為のものではなく、その匂いを嗅ぎ、肌に触れ、そして味わうものだということが伝わってきます。
このティツィアーノの絵画は、まさにその例として機能していきます。
この絵は、フィロストラトスの著書「エイコーネス」の中の「アモルたち(Erotes)」という章で事細かに説明された絵画を元に描かれた絵画だというのが特徴。
こういう文章で表現された絵画をエクフランシスというそうです。
実態なき絵画の模写、というわけですね。すごい話です。
この絵の中に登場するうじゃうじゃいる天使(アモル)たちの中で、一人だけこちらに目線を向けた天使が頬張るリンゴこそが、その味を視覚を通して伝えているという話でした。
このエクフランシスに関して、もう一つのエッセイ「スイスの「白痴」-ドストエフスキーによるエクフランシス」でも取り上げられていて、彼の小説の中に出てくる、ホルベインによる「墓の中のキリスト」(1521-1522)が挙げられます。
横長のキャンバスに描かれたキリストの死。そこには聖性など微塵も感じさせない、まさに死臭すら漂ってきそうな死、そのものが描かれています。
その絵を実際に観たドストエフスキーはその場から動けなくなったそうです。
そして彼の晩年の小説に現れるその絵は数ページにも渡って、エクフランシスが展開します。
こうした小説の中で描かれるエクフランシスについて真っ向から書き出そうとする美術史の文章に出会ったことがなかったので新鮮でした。(プルーストによるフェルメールの「デルフトの眺望」に関する考察はいくつか見受けられますが)
大体の美術史家は門外である小説家の書いたエクフランシスを無視しがちです。それでも彼らは言葉のプロなわけですから、彼らの紡ぐエクフランシスを無視するのはいかがなものかと。
やはりストイキツァの視点は新鮮に響きます。
(あぁ、「白痴」持ってるのにまだ読んでない。。。)
さらに触覚に関して、カラヴァッジョの描く天使たちを登場させます。
以前クールベは「私は天使は描かない」と言って、見えないものたちを完全に否定しましたが、カラヴァッジョの描く天使たちを見ていると、本当に存在するのではないかという疑念すら湧いてきます。これは他の画家が描く天使に対して全くと言っていいほど湧かない感情です。
なんといってもその存在感は、彼の描く天使の触知性です。彼は天使に影を与え、さらにその特徴である羽を描かないことも多々あります。
そんな中でも「聖マタイと天使」(1602)は秀逸。直接天使がマタイに触れて、マタイもそれに気づいているご様子。。。「見えないものは描かない」と言ったクールベもびっくりな絵ですね。ここでの天使は確実に見えていて、さらに触れてすらいます。
この絵はすでに焼失してこの世にないそうです。。。残念すぎる。
さらにこの絵は当初祭壇画として描かれたそうですが、当時の宗教画としては、あまりに不謹慎な絵だと突き返され、代わりに描かれた絵はこちら。こちらは今も健在です。これはこれで、当時物議を醸したそうですが、前よりかはいいってことで受け入れられたんですね。こちらも天使がはっきり見えるものとして描かれています。
同じ主題を描いたレンブラントの「聖マタイと天使」(1661)と比べれば明らか。
レンブラントの描いたマタイは天使の存在に気づいてませんもんね。
それにしてもこのエッセイの冒頭の天使に関するストイキツァ自身の逸話がかわいいですね。
守護天使を信じていた少年ストイキツァは、背後に確実にいるけど、振り返ったら隠れてしまうその天使を見るべく世界中の人たちと輪になってお互いの天使を確認し合おうという壮大なプランを描いていたというエピソード。いいですね、そういうの。僕も家の中にもうひとり誰かいると小さい時ずっと信じてました(こわい)
最後にマネとドガの意外な交友に関して触れられますが、興味深かったのが、マネとドガの絵画の決定的な違いですね。
すなわち、マネの絵画にはよくこちらに視線を投げ掛けてくる人がいるんですが、ドガの絵にはほとんど出てこず、覗き見みたいな形で描かれているんですよね。(そういえばそういうことを宇多田ヒカルが以前日記に書いてた気がする。。。ドガのチラリズムがたまらん的な)
マネの絵画のおもしろさは、絵画自身が観客に自覚的であり、むしろ視線を投げ返してくる挑発的な性格を有しているというところですよね。「オランピア」なんかはその好例で、それが当時大スキャンダルになったわけですから。彼の代表作はほとんどがそうです。(そんな中でも「バルコニー」は例外ですね)
ここでもっとも自覚的な作品として挙げられるのが、「テュイルリー公園の音楽会」(1862)です。
ここで最も注目されるのが署名です。
なんとこの絵の右端に書かれたManetという文字が、椅子の足に一部隠れているんです。
まるで地面に描かれていたものをモチーフとして描いたみたいなノリです。
やっぱマネはわけわかりませんね。すごすぎます。
こうして絵画を視覚以外の感覚を総動員して「味わう」対象として扱った本作は、短編集にありがちな散漫さもほとんどなく、楽しく読めました。
現在は映画にも興味を抱いているそうで、今後の活躍が楽しみです。

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「絵画の自意識 初期近代におけるタブローの誕生」by ヴィクトル・I・ストイキツァ

「影の歴史」に引き続きストイキツァの著書。
この本は残念ながら絶版になってて、調べたら英語版までも絶版。。。
ものすごくおもしろかっただけに非常に残念。
ストイキツァの本はほぼ間違いないかも。

で、読みながらメモのようにして書き出してたらとんでもなく長くなったのでご興味のある方はどうぞ。。。

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「影の歴史」by ヴィクトル・I・ストイキツァ

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ヴィクトル・I・ストイキツァ著「影の歴史」読了。
「絵画」というものを考える上で、ストイキツァの研究は非常に興味深いものがあります。
第一章の「影像段階」からいきなり引き込まれます。
プリニウスの「博物誌」における絵画の起源、すなわち、絵画とはまず影を写し取ることから始まったという話に始まり、プラトンの有名な洞窟神話における知の起源を結びつける。
そして、「影像段階」とくれば、ラカンの「鏡像段階」。
鏡像は自己の類似であり、影像は他者の類似。
人間の発育段階において、まず鏡像(自己)を認識し、その後影像(他者)を認識する。
しかし西洋の絵画は逆の道を辿る。
最初は影像をなぞっていたものが、いつしか鏡像によって肉付けされていく。
これはナルキッソスの神話につながっていく。
アルベルティもその著書「絵画論」で、絵画の発明者はナルキッソスであると明言している。
影をなぞるだけでは絵画とは呼べない。そこに技芸(華)がなければならない。
己を包容しようとして華と化したナルキッソスは、画家の目的と合致すると説く。
西洋絵画は自己愛から始まるとのっけから解き明かしたこの第一章はこの本の中でも白眉。この章だけで一冊分の内容はあります。
レオナルド・ダ・ヴィンチもその手記で肖像画にはどうしても自分を投影してしまうようなことを書いてたことを思い出しました。「モナリザ」は彼の自画像であるという説もあるぐらいですしね。
それにしても、この影の他者性をシャネルの広告からもってくるのにはびっくりでした。
彼の引いてくる画像はそのひとつひとつ非常におもしろいです。
第1章最後のムリリョの「絵画の起源」は、まさに彼のテキストをそのまま表すような絵画ですし、次章のマザッチョの「影で病者を癒す聖ペテロ」やヤン・ファン・エイクの「受胎告知」なんかも非常におもしろい。
特にマザッチョのフレスコ画は、実際のカルミネ聖堂にある窓から差し込む光を考慮した影の描き方をしているという話は鳥肌物でした。
その後も影に関するエピソードを細かく挙げていきますが、特に第5章の「人間とその分身」で挙げられた「ペーター・シュミレール」の話とその挿絵の紹介はおもしろかったですね。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を思い出しました。
そして、絵画の起源から始まったこのお話は、近代芸術における影の台頭、つまり、これまで絵画の主役だった光(鏡像ー自己)から、影(影像ー他者)が表れ始め、ウォーホルにその頂点を見るような展開は、本の展開として非常にスリリングでおもしろかったです。しかもこの本の表紙がまさにそのウォーホルの「影」ってのがよくできてます。
アルベルティの「開かれた窓」は、デュシャンによって閉ざされ(Fresh Widow)、やがてはボイスによって肉付けされていく、という形で終わるのだけれど、最後のボイスの話はちょっと蛇足な感じがしました。
ウォーホルで終わった方が本としてすごく美しかったのだけれど。
それでも本当におもしろい本でした。色々インスパイアされました。
最後に、翻訳の岡田温司氏が書いてましたが、僕はやっぱこの本の原題「A Short History of the Shadow」に基づいて「影の小史」とすべきだったと思います。この「short」に、作者の思いが込められているように思えるのに、それを勝手に「歴史」にしてしまうのは訳者の横暴だと思いました。
他にもストイキツァの本は訳されてるので続々と読んでいきたいと思います。
「絵画の自意識―初期近代における​タブローの誕生」とかタイトルだけでそそられます。絶版なのが痛い。。。ぜひ復刊を!


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「半透明の美学」by 岡田温司



以前から気になってた岡田温司著「半透明の美学」を読了。
「半透明」という概念をアリストテレスからグリーンバーグまで、古今東西あらゆる言説を引用しながら、透明/不透明の二項対立で語られがちだった美学に中庸を作り出そうという試み。
例えばアルベルティがその著書「絵画論」において、絵画を「開かれた窓」とした際の絵画の透明性に対し、グリーンバーグが絵画のマチエル、平面性をこそ強調した不透明性を引きに出す。
あるいは、イヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスの共著「アンフォルム」における、グリーンバーグのフォーマリズム批判をさらに批判し、フォーム/アンフォルムという二項対立からの脱却を図ろうとしている。
そこで出てきた概念が「半透明」というわけなのだけど、ここまで来てふと疑問が湧いてきて仕方なかった。
というのも、中庸を取るとしつつも、がっつり新しい概念を提唱している点。
「半透明」という具体的な言葉を用いてしまうことで、なんだかその中庸性が薄れているように思えてならない。
さらに著者はアリストテレスの「ディアファネース」という言葉を持ってくるのだけれど、この言葉ほどの輝きを「半透明」という言葉に見いだすことは難しいと思う。
だって、半透明って、けっこうイメージできちゃうじゃないですか。
「半透明」という言葉の選択はあまりにわかりやすすぎて勿体ないと思う。
いっそ、デュシャンの「アンフラマンス」のような、もっと煙に巻いた言葉を作ってしまうべきだったと思う。(日本語では中々むずかしそうやけど)
この本でやりたいことはなんとなく理解できるしおもしろいとは思うのだけれど、それにしてはあまりに明晰すぎて逆につまらなくなってしまっている。この概念はやはり霧の向こうにあるような、なんかわからんかったけどおもしろかったなぁ、って感じで終わってほしかった。ただただ「なるほど」と思わせてしまう類いの話ではない気がする。
後半の、リヒターやベイコン、セザンヌやモランディなど、具体例を矢継ぎ早に挙げていって、全部「半透明」の概念に押し込んでしまう姿勢もあまり好きじゃない。
せっかくおもしろい概念なのだからもう少し慎重かつ丁寧に紐解いてほしい。今後の展開に期待といったところ。
あと、最初の方で「影」「痕跡」「鏡」という絵画の起源を挙げていくとこなんかは、谷口渥氏の「鏡と皮膚」とかぶっててちょっと危うかった。(「鏡と皮膚」はおもしろい本だと思う)
それから、古今東西と最初に書いたけど、完全に「東」が抜けてて、著者の「西」への傾よりが気になった。
やはりこの概念は東洋な感じがしてならない。
探していけばいくらでも見つかるだろうに、全部西洋側からのみ引いてるのがちょっと惜しい。著者の研究が元々西洋なので仕方ないとは思うのだけど、やっぱこの概念は東洋思想だと思う。まあ、あえてそれを西洋側の視点から書こうとしてるなら仕方ないけど。まあ、偏ってるとはいえ、その知識は広汎で、参考文献とか非常に参考になる。色々読んでみたくなって困りました。

他にも岡田氏の著書「ミメーシスを超えて」「肖像のエニグマ」「芸術(アルス)と生政治(ピオス)」を一気に読んだけど、「半透明の美学」ほどに興味を引きつけられなかった。
前2冊は他で書いたものの寄せ集めだったので、全体として散漫な印象。
最後のは一冊まるごと書き下ろしなので一貫していて読みやすかった。
今後は岡田氏が関わった海外の美学本を色々読んでみたい。
具体的にはストイキツァやクレーリー、ナンシーなど。

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「神話なき世界の芸術家」by 多木浩二

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最近は、鑑賞よりも、読書に重きを置いてたりします。すっかりインドアw
これまで好き勝手ここで色々書いてきましたが、やはりもっと言葉が必要だな、とつくづく思い始めました。なので改めてお勉強中です。
そして、ブログ名もいつの間にやら「'A'」に。「中毒」さよならです。

最近読んだ中では多木浩二さんの「神話なき世界の芸術家」がおもしろかった。
こちらは藤枝晃雄さんの「ジャクソン・ポロック」と兄弟的なバーネット・ニューマン論。
この本は絶版で、現在プレミア高騰中。。。なんだけどなぜか定価以下で買えた。ラッキー!
多木さんの文章ってこの手の本にしては珍しく、異常なほど読みやすい。
実際この本も読み始めて数時間で一気に読めてしまって自分でもびっくり。
まあ、ひっかかりが少ないってのも正直あるけれど、ニューマンをよりよく知る入門書みたいな一冊。
1933年にニューヨーク市長選に出てたなんて知らなかった!
ニューマンは特に色々言葉を残した作家なので、この本に収録されてる彼の言葉はためになります。
「おそらくわれわれはものがそれ自体として眺められるような絵画のあたらしい状態に達しつつあります。」
「私は、人は一枚の絵画を描き、一点の彫刻を作るために生涯を費やすものである、と考えているのです。」
等の発言や、スケールの話はとてもよくわかりますね。
また、ニューマンの絵画における、ユダヤとの関係はよく語られることではありますが、この本ではそこからいかに突き放すかがひとつの命題になっています。
2010年のニューマン展でも、イブ=アラン・ボアがユダヤと重ねて講演していたようだけれど、僕もニューマン作品と具体的な宗教を結びつけるのは抵抗があります。
確かに彼の作品は宗教性を帯びてるところがあるけれど、僕の中でいい作品というのは、絶対的な何か(それをあえて言葉にするなら宗教性になるのだけれど)があるのだと思います。
僕がカプーアやロスコが好きなのもそういうところにあります。
この本のタイトルにもなっていますが、それは、その作品自体がある神話を形成しているから。
この本読んで改めて色々考えられたし、またニューマンの作品見たくなりました。
最後のニューマンの彫刻と建築の話はほぼ蛇足な印象。というか彼はやっぱり彫刻の才能はなかったと思います。それもあってほとんど流し読みでした。
もう少し彼の絵画の垂直性に関して触れてほしかったな、と個人的に思いました。
それにしてもこの戦後まもなくアメリカで誕生した抽象表現主義というのは、本当に色んな言葉が生まれるフィールドとして、とてもおもしろい運動ですね。僕の中で絵画史はここまでという印象。
ニューマンとポロック、そしてロスコと、本当に偉大すぎます。
ロスコに関する本がいまいち見つからないので、今後色々あたってみたいです。
というか、一番好きなのがロスコなので、何かあったら教えてください!


で、お次はポロック関連です。ポロック展以前以降集中して色々読みました。
・ユリイカ 1993年2月号 増頁特集 ポロック
加治屋健司「誤作動する武器――クレメント・グリーンバーグ、文化冷戦、グローバリゼーション」
グリーンバーグ批評選集
批評空間 モダニズムのハード・コア―現代​美術批評の地平
これらに加えて「ART TRACE PRESS 01」や藤枝晃雄氏の「ジャクソン・ポロック」を読むとよりポロックをより一層理解できます。但し後者は絶版。。。ついこないだまで普通に売ってたんだけど。藤枝さんの文章は正直わかりづらいけれど、ポロック入門書としては良本。
というか、今に始まったことではありませんが、美術系の重要な書物のほとんどが絶版なのは深刻な問題です。「モダニズムのハード・コア」なんて、美術やってる人間は絶対通るべき本なのにも関わらず今では手に入りません。。。自分も図書館で借りて必死にコピーしました泣
あとはこの系譜でいうと、ハロルド・ローゼンバーグの「新しいものの伝統」やロザリンド・クラウスの「オリジナリティと反復」も絶版。
ぜひ諸々再版してほしいところですが絶望的でしょうね。。。

さて、まずはユリイカ。
古本屋で400円で売ってたので何気なく買いましたが、ものすごく内容が濃くてびっくり!
まあ、ユリイカ自体、毎回濃度の濃い雑誌なので当然と言えば当然なんですが。
「ART TRACE PRESS 01」に載せきれてない分をこっちで補完できる感じ。(年代的に逆だが)
ポロックの有名なインタビューや、リー・クラズナー等の貴重な証言も収録。
おもしろかったのはやはり多木浩二さんと藤枝晃雄さんの超豪華対談!!
この辺の対談は上に挙げてる加治屋健司さんの論文を読むととてもよく理解できます。
CIAなどきな臭い内容ですが、当時の時代背景を知った上で読むとまたひと味違います。
あと丹生谷貴志さんの論文「スピノザ的『神』が散らす塗料のゆくえ」はおもしろかった。
スピノザの「人間などおらず、ただすべては風景の中にある」という言葉から、それをそのまま体現しているようなセザンヌの絵画を引き、フランスを中心とするヨーロッパ世界がその「人間のいない世界」を見いだしてきたのに対し、アメリカはその逆、すなわち「人間のいない世界」から自分たちを見いだすことから始めたという導入は初っぱなからドキドキしました。
また元京都近美の学芸員尾崎信一郎さんの「解体と継承」は、グリーンバーグからフリード、クラウスへと続く批評の道を非常にわかりやすく説いていてすごく役に立ちました。

続いて「グリーンバーグ批評選集」と「モダニズムのハード・コア」。
どちらも以前読んでましたが、改めてポロック展見てから読むと色々おもしろかった。
前者に関しては、モダニズム芸術を語る上での金字塔的論文「アヴァンギャルドとキッチュ」「さらに新しいラオコオンに向かって」「モダニズムの起源」「モダニズムの絵画」が日本語で収録されてるのは改めて貴重。出版2005年と最近だけれど、それまでどうしててんやろ。。。これも絶版にならないことを祈ります。
ということで、いまさら自分が挙げつらうまでもないんだけれど、ちょっと疑問なのは「モダニズムのハード・コア」でT・J・クラークが批判しているように、彼がプッシュするポロックやニューマン、ロスコのような所謂抽象表現主義の画家たちに大きく影響を与えたシュルレアリズムや、ダダのことにほとんど触れず、代わりにマチスやマネなどを挙げるのはどういうことなんだろう?確かにマチスやマネは、絵画におけるモダニズムに大きく影響を与えたのはもちろんその通りなんだけれど、内容からしてみれば、シュルレアリズムやダダの影響というのはものすごく重要なはずなんだけれど。
特にデュシャンの言及なんて、ほっとんど皆無に近い状態。
1917年の「泉」以降、いやもう少し遡って1910年の「階段を降りる裸婦」はアメリカにものすごい衝撃をもたらしたと聞いているのだけれど、その辺のことはまったく触れられていない。
これは、フリードの論文にも同じことが言える。不思議で仕方がない。。。
ちなみに「モダニズムのハード・コア」にも収録されてる「芸術と客体性」はものすごくおもしろい論文ですね、改めて。T・J・クラークとのやりとりも含め、フリードの書き方は痛快。クラウスの文章は読んでてこんがらがることが多いのだけど、フリードのはうなずきながら読むことが多いなぁ。
それでもアンソニー・カロをあそこまで褒めちぎるのはかなり疑問ですが。。。


最後に表象05「ネゴシエーションとしてのアート」。これは学会誌ですが非常におもしろい内容。
なんといっても、クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」の邦訳がそのまま収録されてるのは素晴らしいです。でも、その前にこの論文の元となった、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」が未だに翻訳されてないのはどういうことなんでしょう。。。
90年代以降のアートを考える上でこれもある意味金字塔的な論文。
誰かフランス語から直接日本語に訳せる人に訳してもらいたいですね。
それでもこのビショップの論文で色々要約してくれているので、ブリオーの論文の全貌をかいま見ることは可能。
その上でブリオーの前著の矛盾をがんがん暴いていく姿勢は読んでて非常におもしろかった。
つまり、ブリオーのリレーショナル・アートに関する視点があまりに楽観的という指摘。
例えばブリオーの挙げる、リクリット・ティラヴァーニャの画廊でカレーを振る舞うパフォーマンスは、前提に画廊で行うというフィルターを通すことで、「鑑賞者」を選別しているという指摘。
これに対して、ビショップはサンティエゴ・シエラの作品を挙げ、これらのフィルターから漏れでた人たちとどう関係していくかを説く。
こうやって具体例を挙げていくことで、批判を強調していく様は痛快。
ますます「関係性の美学」読みたくなりました。。。
あと、ハル・フォスターの論文も収録されてたけど、これに関しては非常に読みにくい、、、というか民俗学の知識なくしてこれちゃんと読めるのだろうか?
そもそも彼の著作って、結構邦訳されてて、しかもそれらが絶版にならずに売られ続けたりするんだけれど、他の著者とどう違うんやろ。素朴な疑問です。

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「美を生きるための26章」 by 木下長宏

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今年後半に控えてる展覧会の為に本を読み漁ってます。
今も目の前に山積み状態。追いつかん…。
そんな中で本当に出会えてよかった本。
それが木下長宏さんによる「美を生きるための26章」。
アルファベット26文字に合わせて、それぞれの頭文字が付く人物を紹介。
中には大乘寺(D)やラスコー(L)なんてのもあるけど、そこはご愛嬌笑
にしてもラスコーって!
木下さんは幼い時から車椅子生活をしてはる人なんやけど、車椅子とは思えない行動力。
ラスコーもフランス政府の許可が出て、車椅子で行ったらしい。。。すごい。
ラスコーは昔は一般人も入れたそうですが、今は保存の為に許可がないと不可。
アートの起源と言われてるだけに死ぬまでに観ておきたいです。
そんなラスコーの様がありありとここに描かれています。
木下さんの描き方がこれまたすごい良くて、ますます行きたくなります。
この本を読むと批評とは何ぞやってことがわかる気がします。
僕がこの本から汲み取ったのは、「評することは愛すること」ということ。
26文字分どの文章にもその人(場所)に対する思いやりが滲み出ていて、読後の爽快感が堪りません。
特にYで取り上げた尹東柱(ユンドンジュ)の回は白眉だと思います。
彼のことはこの本を読むまで知りませんでしたが、彼が抱いた感情の断片が、木下さんの文章を通じて伝わってくるようでした。
そしてなにより、木下さんが注意深く日本語に訳した彼の詩が素晴らしいです。
この本の中では、しばしば木下さん訳による引用が現れます。
決して人の訳に頼ることなく、木下さんなりの言葉で引用されている。
尹の詩を訳すために韓国語も勉強したそうです。
韓国語は、日本語と似て非なる表現が多いので、訳には繊細な注意を要します。
ちょっと気を抜くと全く違う方向に訳してしまったりするんでしょうね。
これまでの尹の詩の日本語訳の難しさがこの文章の中に描かれています。
同志社大学と京都造形大学に、彼の碑が建てられているそうですが、そこに刻まれている詩の日本語訳は木下さん的には不服だそう。特に後者は自分が教えてた大学なのに、どうして自分が間違ってると授業でも教えた日本語訳が刻まれてるんだ!とご立腹でした笑
また、Vのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの回でも、皆があまりに彼を「炎の画家」に仕立てあげたくて、勝手に物語を編んでるという指摘がありました。
作品のタイトルもゴッホの死後に誰かが付けたタイトルだってのはびっくり。
これに関しても丁寧にゴッホの生き方を描いてます。
去年の日曜美術館の木下さんが出ておられたゴッホの回がYouTubeにあったのでリンク貼っておきます。
本にも紹介されてる彼の絶作「麦の穂」に関するコメントもされてますね。
日曜美術館 ゴッホ誕生 ~模写が語る天才の秘密~-01 02 03

同時期に千葉成夫さんの「未生の日本現代美術」を読んでたんやけど、こちらは「日本の絵画・彫刻が如何に未生のまま今に至っているか」という話があって、そこはすごく面白いんだけど、作家を挙げて具体的な批評が始まる段になると、いきなり批評家の傲慢さが表れて、無理矢理自分の器に盛り付けようとする。だからどれも似たような文章だし、途中で作家入れ替えてもわからないかも。
片や木下さんは、まるで自分が水になったように、相手の器に合わせて形を変える変幻自在スタイルで、26章全く読み飽きません。
色んなタイプの批評家がいますが、ほとんどが千葉さんタイプだと思う。
決して千葉さん批判でないんやけど、千葉さんのスタイルはある意味楽なやり方だと思う。
決定的な器を創りだすのが批評家の役目とも言えるのかもしれない。
だけど、やっぱり料理と同じで、それにあった器に盛り付けなければ味だっておいしくなくなる。
如何に料理(作品)を美味しく見せるか。
キュレーターや批評家にはその根本を忘れてほしくないですね。
ちなみに千葉さんの思想としての批評はものすごく面白いですよ。
彼の「現代美術逸脱史1945~1985」は戦後日本美術史を辿るのにすごくわかりやすい名著です。

ちなみにこの「美を生きるための26章」は、木下さんが定年後、横浜で私塾のようなものを開いて、毎週土曜日に開講していた「土曜の午後のABC」という授業をまとめた本。
今もこの私塾は開講していて、今はアルファベットも終わって、一年かけて自画像をテーマに話し続けているらしい!一度聴きに行ってみたいですね。

  


以下いくつか抜粋。よかったらどうぞ。


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ハンス・ウルリッヒ・オブリスト|インタビューVolume1[上]

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アートシーンで最も影響力のある人物の一人ハンス・ウルリッヒ・オブリスト。
現在サーペンタインギャラリーのディレクターを務めながら、世界中を飛び回ってます。
そんな彼のライフワークとも言えるのがインタビュー。
アーティストをはじめ、建築家、哲学者、科学者、文学者、等々
あらゆるジャンルを飛び越えて、これまで数百にも及ぶインタビューを繰り返してきました。
今年の妹島さんがディレクションしたヴェニス建築ビエンナーレでも出品作家の一人としてオブリストの名があり、彼のインタビューが「展示」されていたそうです。
その中から30本のインタビューがこの本に収められています。
マリーナ・アブラモヴィッチ、ダニエル・ビュレン、オラファー・エリアソン、ギルバート&ジョージ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、フェリックス・ゴンザレス=トレス、スチュアート・ホール、カールステン・ヘラー、ガブリエル・オロスコ、ローレンス・ウェイナー等々!!
この本自体は海外で2003年に発売されたものですが、今回なんと日本語になって登場!
Twitterで田中功起さんが紹介してて即買しました。
何気にTwitter重宝してるかもしれません笑
タイトルに[上]と付いているように、これは本書の半分しか収められていません。
この本の中にまだ収められてない名前としては、ヴィト・アコンチ、マシュー・バーニー、クリスチャン・ボルタンスキー、ダグラス・ゴードン、ダン・グラハム、オノ・ヨーコ、ロニ・ホーン、ゲルハルト・リヒター、ピピロッティ・リスト、ミケランジェロ・ピストレット、磯崎新、伊東豊雄、妹島和世、レム・コールハース、ザハ・ハディド等々!
まだまだ豪華メンバーが残ってる[下]が待ち遠しいです・・・。
そもそも一人ずつのインタビューを収めたConversation Series(以下CS)という本が20冊ほど既に出てて、少しずつ集めようと思ってたのですが、これはその導入編にぴったりですね。
ここにはそのインタビューからの抜粋なので、それでさらに知りたければCSを買えばいいんですね。とりあえず今はオラファーとレムの2冊を持ってます。
ちなみにCSは英語版のみです。レムとザハに関しては日本語の本が出てます。


それにしてもこの本。この本自体の美しさにまず目が奪われます。
数ページごとに紙質が違うんです。2枚目の写真でわかりますかね?
捲っていった時に手触りが変わるんです。
こういうのはやはり電子書籍では味わえない本の良さですよね。
表紙もシンプルでかっこいい。辞書のような趣です。
それもそのはず。これはJay Chung & Q Takeki Maedaという作家のアートピースでもあるのです!
日本語にも関わらず海外でも販売されているらしく、単純にオブジェとしての扱い。
これだけの内容を丁寧に訳すだけで根気強い作業だと思います。
よほどの情熱じゃないと無理です。やっぱそれが作品となると懸けれる力は違うものなんですかね。
是非下も諦めずに制作してほしいです・・・。
ちなみに今amazonでは入荷待ち状態。
アート関係者は是非手に入れてほしい。これで5140円は安すぎる。
インタビュー自体最新でも2003年のものですが、そこから浮かび上がってくる歴史はすごい。
人が歴史をつないでいく様がこのインタビューたちを通してよく見えます。
フライ・オットーやコンスタントのような人々のインタビューは凄まじく、コルビュジエやモンドリアン、デュシャンやジョン・ケージ、レヴィ・ストロースやフーコーのような人々が伝説上の生き物ではないことがわかる。
実際すでに亡くなってる人のインタビューもある。
特にフェリックス・ゴンザレス=トレスのインタビューは読んでいて新鮮。
この人が如何にアートに革命をもたらしたかがわかる。
トレスが活躍した90年代という時代も垣間見れるのもこの本の特徴。
90年代はまだ歴史になりきれてない歴史。
70年代80年代の話はよく聞くものの、90年代というとあまりピンとこない。
イギリスのYBAぐらいしかわからず、他はどうなっていたのか。
まさにそれらの時代の証言も収録されているのがこの本の魅力でもあります。
そしてなにより、オブリストの博識ぶりは驚嘆するばかり。
人に何かを聞くにはある程度その分野のことについてわかっていないと不可能。
アートから言語学、宗教学、哲学まで。
一体どういう頭をしてるんだろうか・・・。

以下は本から気になった箇所を抜粋。
一応追記で読みたい人だけどうぞ。

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STUDIO OLAFUR ELIASSON : An Encyclopedia

ご無沙汰してます。

実はヴェニスビエンナーレに行ってました。

嘘です。どこにも行ってません。東京にすら行ってません。
仕方ないです。今月は本当観に行くものが特にないんですよね・・・。
なので、今回はここ数ヶ月で購入したアート本の紹介でも。
ちょっと買い過ぎて本棚パンク寸前です。あー書庫欲しい。

STUDIO OLAFUR ELIASSON : An Encyclopedia
買ってしまいました・・・この恐ろしい本を。
何が恐ろしいってこの大きさです。
45.8 x 35 x 7cm。重さ5.6kg。
鈍器として人を殺めることも筋トレに使うこともできます。
すさまじいボリューム。
そして値段も横綱級。定価2万円也。
このありとあらゆるボリュームに怯んで、先にSFMoMAの展覧会図録を買ったんですが、やっぱ欲しいなぁ、と思ってたら、安く手に入る裏技を知ってしまったのです。
その裏技とはズバリ、amazon.co.uk
そう、このポンド安を利用するのです。
日本のamazonでは16000円。
それがイギリスamazonではなんと8000円!しかも海外発送料も込み!
買いました。
届いて再びひるみましたが、今では本棚にて異様な存在感を放ってます。
「STUDIO」というのは、彼はアーティストとしては異例のチームで作品を作ってるんですね。建築家の方法論ですね。実際建築も作ってるし。
そんな彼(ら)のプロジェクトがぎっしり詰まった「Encyclopedia(百科事典)」。
ヴィジュアル満載で大画面。言うことなしです。
まだ文章は読めてないですが、これから少しずつ読んでいこうと思います。
年末の金沢の展覧会はホント楽しみですね。

ANTONY GORMLEY : BLIND LIGHT

ヘイワードの展覧会カタログ。
観た時に買いたかったんやけど、当時はこれまたポンドが高いのなんので断念。
でもあの時買わなかったのを随分後悔してたらやってきましたポンド安。
今回のポンド安でamazonも大分落としてきたので購入。
しかし注文してからえらい時間がかかった・・・3ヶ月以上かかった。
忘れかけた頃に届きました。何があった?
そんな長旅を経てやってきたこの本はあの伝説的な展覧会が見事に収められてます。
ヘイワードかなり気合い入ってましたからね。
この表題の作品はゴームリーの新たな一歩を感じる最高の作品。
この展覧会は今でも忘られません。
日本は展覧会の図録が安いんですが、向こうは結構するんですよね。
でもやっぱ思い出に残るものは記録として買っておくべきと思いました。
しかし10月にテートから出るゴームリーの本が気になる。
この作品収録されてたらショックやな・・・されてるんやろうなぁ・・・。
<関連記事>Antony Gormley @ HAYWARD GALLERY

(左から)
川内倫子 「種を蒔く/SEMEAR」 「AILA」 「うたたね」

ずーっと欲しかった「AILA」。
本屋で何気なく広げたその本は僕にとって衝撃でした。
見たことあるのに見たことない。
そんな風景が鮮やかに映し出されていたのです。
即買い!と行きたかったのですが、3500円ってのが微妙な値段だったので保留にしてたらぐんぐん時が経ってしまったのです。
そしてついにヤフオクでゲット!
ついでに「SEMEAR」と「うたたね」がセットで安かったのでこちらも。
この勢いで「Cui Cui」と「花火」も手に入れたいところです。
それほどまでに彼女の撮る写真は心を惹き付ける。
ただの何気ない日常を切り取ったストレートフォトにも関わらず、彼女のファインダーを通すと世界が劇的な変化を起こす。ただの風景が愛情に満ち溢れるんです。
「AILA」では生と死をテーマに、様々な生き死にを捉えてるんですが、鶏が血を流して捌かれるのを待ってる写真も、牛の出産もどれもこれもが慈悲深い風景に見える。
「SEMEAR」では日系ブラジル移民100周年を記念して向こうで開かれた展覧会で、カーニバルの様子までとてもやわらかく撮れてるのがすごい。むしろこれは蜷川実花的被写体なわけだけど、それすら彼女の色に染めてしまってるのだから。
僕はロンドンで開かれた展覧会の「Cui Cui」を見て泣いてしまった経験があります。ただの写真なのに涙が止まりませんでした。
「泣ける」写真を撮らせたら僕の中で彼女以外にいません。
才能という言葉は使いたくないけど、彼女の写真にはやはり何かがあります。
<関連記事>Rinko Kawauchi @Photographers' Gallery

(左から)
「塩田千春/心が形になるとき」 「金と芸術」 「ポンピドゥー・センター物語」

まずは塩田さんの本。
これは神戸芸術工科大学デザイン研究センターが昨年塩田さんをゲストに迎えた際の公演記録+αといった内容。
講演会記録で印象的だったのが、アカデミー・シュロス・ソリチュードの助成を受けた時の話。この助成は作家へのサポートが凄く、一年半の滞在期間中、住居・アトリエは無料で貸し出され、その上月に15万円の生活費が出て、塩田さんの場合、ベルリンの住居費まで払ってくれたとのこと。これだけのサポートの為に、世界中から応募が絶えません。
しかし塩田さんはこの手厚さに苦労したとのこと。あまりに恵まれ過ぎて、逆に制作ができなかったそうなのです。
「作家は、環境が恵まれているからいい作品ができるのではないということがわかった」というのが印象的。不思議なもんですね。
しかしこの公演会の内容も去ることながらあとの+αが中々すごい。
なんといってもドローイングノートがそのまま公開されている!
言わば作者にとってドローイングノートというのは秘密の手帳みたいなもんで、誰にも知られたくない内容も多々ある。
特に作品になる前の構想段階のものなんかは絶対人に見られたくない。
しかし今回それらの部分が生々しく公開されている。
中には、ああこれは実現せんよな、っていう、言っちゃ悪いがこれはないでしょってのも含まれてて、作家の「産みの苦しみ」が見られる貴重な機会だ。
それから、アトリエの写真や、ベルリンの写真等も満載で、一人の作家にここまで迫った本は中々ないんじゃないかと思う。塩田ファンは確実に持っておいて損はないでしょう。
<関連記事>
塩田千春「精神の呼吸」@国立国際美術館
塩田千春「沈黙から」@ 神奈川県民ホール

そして、お次は「金と芸術」。
副題に「なぜアーティストは貧乏なのか?」とついてます笑
こちらはオランダの作家で経済学者でもあるハンス・アビングという人が経済学と芸術の立場から多角的なアプローチで、金と芸術にまつわるエトセトラを解きほぐしていくというもの。知り合いのキュレーターさんが薦めてらっしゃったので、これもヤフオクでゲットしたんですが、500ページもあって中々骨が折れました。
しかも内容がもう傷口に塩を揉むような笑
面白かったのは、助成が作家の貧困の一要因だという作者の意見。
助成があるから作家の絶対数が増えて需要と供給のバランスが崩れて貧困を生むということ。ヨーロッパでは作家に対する助成が数数多あって、先に書いた塩田さんもその助成に触れてますね。助成というのはある種の執行猶予期間でしかなくて、終わってしまったらまた振り出しに戻るってパターンがあまりに多く、作家を真にサポートするという点であまり効果を発揮してないんじゃないかと。
でも、それを言っちゃぁ、日本みたいに助成すらまともにない国で作家してる人間って何なんでしょうってなりますよね笑 確かに作者は「これはあくまで欧米のシステムを元に書いている」と前置きしてますが、やっぱり違いがはっきりしすぎて途中感情移入できずに読み飛ばしちゃったりしました。
まあ、改めて日本との違いをはっきり示してくれた本ですね。
最後の「ポンピドゥー・センター物語」は、その立ち上げ時からキュレーションメンバーに加わっていた唯一の日本人岡部あゆみさんが書いた本。
「物語」というからには、岡部さんが個人として体験した具体的な出来事がちりばめられてるのかと思ってたら、もっと客観的な記録とかデータの集積が多くてちょっと興ざめ。今までポンピドゥーに関して知らないことがいっぱい知れたりしたけど、期待してたものと違いました。
<関連記事>Centre Pompidou

ART iT No.24 「日本発、ヴェネツィアへ!」

何気に3号連続で買ってる・・・。
特に好きな本でもないんやけど、ここ最近僕の好きなテーマの特集が続いたので。
前号の「記憶のアート/消滅のアート」は直球ど真ん中でした。
今月号はヴェニス特集。特にヴェニスに興味あるわけじゃないけど、名和さんの記事が載ってたので。知らない間にすごいことになってるんですね、名和さんのアトリエ。。。
レジデンス施設や研究機関も備わってるらしいし、手がける建築家達もすごい。今注目されてる若手建築家長山祐子も含まれてる。
そういや今月26日からのscaiの展示もこのうち2人が出しますね。
どこまでいっちゃうんでしょうか・・・。
記事中にジャッキー・チェンが触れられてるのがウケた。
しかしART iT休刊はかなりショック。せっかくおもしろくなってきたのに。
ウェブでは読む気せんのよね。やっぱ本というメディアは重要。
どんどん雑誌がなくなっていって、寂しい時代になってきました。
一方某美術雑誌は生き残りに必死過ぎてどんどんおもしろくなくなってる。んー。

ユリイカ6月号「レム・コールハース 行動のアーキテクト」

1冊まるごとレム・コールハース!濃いです。
冒頭の磯崎さんの対談もおもしろい。やっぱこの人は論客という立場でいたほうがいい。建築は駄目駄目なんで。。。磯崎さんの審美眼は確かでレムのラ・ヴィレット公園もCCTVも見ぬいたのはこの人。だからこそ語れる言葉がこの対談に込められてる。
OMA用語辞典もいい。彼をめぐる言葉があまりに多いのでこうしてまとめておいてもらえるのはかなり助かる。や、何に助かるのかわかんないけど笑
あとOMAの本を装丁という観点から論じたグラフィック・デザイナーの秋山さんの特集もかなりおもしろい。どんどん読みたくなってくる。
でも、いくつも収められてるレムに関する批評は正直おもしろくない。なぜならレム自身が彼の最大の批評家だから。他の人の批評を読んでると、レムの後追いですらないのがはっきりとわかる。もう開き直って、五十嵐さんと瀧口さんの対談みたいに、もう自分がいかにレムに魅かれてるかを純粋に語り合った言葉こそ真に迫っている気がする。批評にはならないけどもう批評はレム自身に任せた方がいい。
もうレムは巨人すぎてよくわからない。
最近出たDVDも見たい。
にしても炎上したTVCCはホント残念でしたね。
中国ではザハの建築も炎上したそうです。。。何なんだあの国は。
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